朝倉義景

朝倉義景/wikipediaより引用

浅井・朝倉家

なぜ朝倉義景は二度も信長を包囲しながら逆に滅ぼされたのか?41年の生涯まとめ

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信玄、激怒!

ともすれば日和見主義にも見え、なかなか戦わない主君にはついていけない――そんな懸念が表面化してきたのは、同年8月のことでした。

義景の家臣である前波吉継や富田長繁などが、次々と織田方に寝返ったのです。

義景はそれでもだんまりを決め込みました。挽回しようとか、揺さぶりをかけるとか、際立った動きが見られません。

その間に信長は虎御前山へ砦を築いたり、「日時を決めて決戦しよう」と申し入れるなどの動きを見せましたが、今回も義景は無視しています。

9月16日、信長は新しく築いた砦に秀吉を残し、横山城へと兵を引きました。

この翌月には、ついに武田信玄が西上していましたので、その兆候を知らされてのことかもしれません。

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これを機に、義景は浅井軍と共に岐阜へ攻め入ろうとしましたが、虎御前山砦の秀吉隊に敗れてしまいます。

それだけならよかったものの、ここでやる気がなくなってしまったのか、12月3日には将兵の疲労と降雪を理由として、勝手に撤退してしまうのです。

これには武田信玄が激怒しました。というのも、朝倉軍撤退の少し後に、三方ヶ原の戦いで徳川軍を破り、さらに西へ向かっているのです。

つまり義景が撤退しなければ、そのまま武田・朝倉・浅井の三氏で織田・徳川を包囲することも不可能ではありませんでした。

これに対して義景がどのような返事をしたのか。そこはわかっていませんが……信玄の怒りようもわかるというものです。

翌元亀四年(1573年)2月、信玄は気を取り直して再び義景の出兵を求めましたが、これにも応じませんでした。

3月には将軍・義昭が信長と絶縁。

4月には武田信玄が西上の途中で病死。

どこかで、義景が動いてよさそうなものですが……どのタイミングでも、そうはしませんでした。

 


浅井の援軍に来てすぐに撤退

一方、信長は義昭を追放し、武田はしばらく動かないと見て、いよいよ浅井・朝倉征伐にかかります。

改元を挟んで天正元年(1573年)7月、再び浅井氏の本拠・小谷城へ迫りました。

今度も義景は援軍として出馬しますが、これまで散々好機を逃してきたせいで、既に大多数の家臣から見限られていました。

一族筆頭ともいえる朝倉景鏡は「度重なる出兵で疲弊している」として、出陣命令すら拒否しています。それでも2万ほどは集まったそうですから、日頃の行いが良ければ精強な大軍になったことでしょう。

頼みの綱だった朝倉軍の状態を見てか。

浅井氏の家臣からも織田氏へ寝返る者が増えてきていました。

8月半ば、信長は暴風雨の中を自ら出馬し、朝倉方の大嶽(おおずく)砦を攻め落とします。

信長の機転もあって恐怖に駆られた朝倉軍。義景は早くも越前への撤退を決めますが、それを信長に読まれていました。

信長公記によれば、当初、織田方の軍勢は朝倉軍の撤退を見逃し、追撃に出遅れたそうですが……それでも朝倉軍は追いつかれ、一乗谷までの道中でも多大な将兵を失いました。

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生き残った者も次々と逃亡し、義景が一乗谷城へ着いた頃には、ほんの十数人程度の側近しかいなかったとまでいわれています。

さすがに誇張が含まれているでしょう。しかし、軍事行動が成り立たない程度の人数になってしまっていたというのは間違いなさそうです。

義景も「もはやこれまで」と思ったか。

自害しようとしたところを近臣の鳥居景近や高橋景業に止められ、そこに朝倉景鏡がやってきたため、思いとどまります。

景鏡は、一乗谷城から出て、ひとまず東雲寺に逃れることを提案しました。

 


賢松寺で自刃 最期まで煮え切らない

義景は、景鏡の提言を聞き入れてその通りに行動し、次は平泉寺の僧兵に援軍を頼みます。

しかしここも既に信長の調略を受け、織田方についていたため、逆に襲われる事になりました。

次に義景は賢松寺に逃れると、ここで最後の裏切りを受けます。

なんと、景鏡が織田方につき、賢松寺を襲ったのです。

幾度も総大将を任せてきた親族の裏切りに、いよいよ腹を決めたのでしょう。

義景は賢松寺で自刃し、ここに戦国大名・朝倉氏は滅亡しました。

享年41。

それにしても、あまりに煮え切らない態度に、イライラとさせられた方も多いかもしれません。

朝倉孝景や朝倉宗滴など、名将を産んだ朝倉家で、どうしてこのような当主に育ってしまったのか。

その原因について、

「それまでの越前がうまく治まっていたがために、軍事的な才能が育たなかった」

「実は六角氏からの養子だったために家中の心が離れた」

といった見方もあります。

確かに、存命中の宗滴が有能であるがゆえに他の者へ仕事を任せることができず、次世代への引き継ぎができなかったこと、さらには親族が少なかったことなどは、義景だけの責任ではありません。

それらを差し引いたとしても、攻め時・退き時の判断があまりにも鈍く、また、家中の統率に心を砕いた節が見られないのは残念なことでしょう。

一言で言えば「向いてない」。

義景が風雅を愛し文化面に秀でていたことを考えると、大名家のトップではなく、二番・三番手の重臣にいたら、うまく才能を活かせたかもしれません。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
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