戦乱に巻き込まれ、ボロボロになっていた室町幕府。
足利義昭の将軍就任を助けたのが織田信長であり、その義昭を京都から追放したのが信長であることも割とよく知られていると思います。
しかし……。
意外と疎かにされがちなのが、元亀4年(1573年)7月18日に起きた信長vs義昭の最終戦【槇島城の戦い】ではないでしょうか。
室町幕府が滅亡する直接的なキッカケになった割に、フィクションでもほとんどスルーされがち。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも戦い自体の詳細は語られず、秀吉に捕らえられた義昭が、光秀の横を通り過ぎて終了でした。
確かに槇島城の戦いでは、大きな被害は出ておらず、戦闘自体は地味です。
しかし、信長と義昭の仲違いから滅亡までの流れはなかなか劇的で、戦国ファンをドキドキさせてくれるはずでしょう。

織田信長/wikipediaより引用
てなわけで、槇島城の戦いまでの流れを、広く、城の戦略視点から追ってみたいと思います。
京都を取り巻く畿内政治の闇
信長と義昭の対立。
それは一般的に
横暴になってきた信長に対して、キレた将軍義昭が反旗を翻し、全国の戦国大名を巻き込んで信長包囲網を形成!
しかし逆にフルボッコにされて京都から追い出され、室町幕府が終了した――
そんな流れで知られています。
しかしこれだけでは、なぜ諸大名を抱き込んで完全包囲網を敷いた義昭が負け、孤立した信長が完勝した理由が分かりません。
そもそも多くの誤解が含まれていて、義昭も信長もその真の実力の半分も伝わっていません。
両者の誤解も解きつつ、戦いの背景から経過まで見て参りたいと思います。

足利義昭/wikipediaより引用
「天下の仕事は義昭 軍事の仕事は信長」
信長の力を借りて第15代征夷大将軍に就任した義昭は真っ先に、自身の気に入らない「永禄」の元号を「元亀」に変えようと朝廷に働きかけます。
元号は通常、朝廷と将軍の間で決められます。
ところが「永禄」は当時の将軍・足利義輝に一言のことわりもなく、憎き三好家によって定められていたのです。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用
これまでも三好家は義昭の父で12代将軍である義晴を京都から追放し、兄・義輝を白昼堂々と殺害し、さらには義昭自身も本圀寺の変(ほんこくじ)で襲撃されるなど将軍家にとって天敵のような存在です。
しかしこの改元案に対し信長は、義昭の意に賛成ではありませんでした。
「おいおい、個人的なトラウマで元号変えようとすんじゃねえよ。日本中が迷惑するだろ。てかどうしても変えたいなら『天正』一択だな!(超訳)」
この信長の提案に対し、義昭は、勝手に朝廷へおねだりし、元号を「元亀」に変えてしまいます。
信長が、若狭・越前遠征中という手も足も出ない時期を狙って強行したのです。
義昭が信長のことを「父」と呼び、信長が口うるさく政治にイチャモンつけてきても、天下の政治においては将軍優位に進められ、それを覆す権限がないことが分かります。
そして、やや調子に乗った義昭は、すでに信長が畿内から一掃したトラウマ・三好三人衆の再起を恐れ、大包囲網を勝手に画策します。
義昭は、三好三人衆が潜む四国を取り囲むように中国地方の毛利元就や九州の大友宗麟に御内書を密かに出し、畿内の「我が軍(当然、信長の軍勢です)と共闘で三好家を討伐せよ!」と命じたのです。

毛利元就(左)と大友宗麟/wikipediaより引用
しかしこれは信長にソッコー見つかり、「余計なことをするな」とお叱りを受け失敗していまいました。
コチラ、信長の傲慢さがうかがえるエピソードとして取り上げられる一件ですが全くの誤解でしょう。
義昭が信長の軍事力に頼っている以上、相談もせず勝手に軍略を立てて、あとはヨロシクとはいきません。
天下平定の大戦略は信長に決定権があるのです。
軍事については信長にほぼ全権があったことが分かりますね。

義昭が描いていた妄想のような構想――茶色の三好勢力を毛利(緑)、大友(青)、織田(赤)で取り囲む……って無理がありすぎます/©2016Google,ZENRIN
将軍といえども流浪生活の長かった義昭に直臣は少なく、自前の軍事力の整備が遅れていました。
畿内で将軍様としてふんぞり返るためには、自分に味方する大名の軍事力を背景にするしかなく、義昭にとってはそれが信長であり、畿内で無双状態の信長と手を組むことが最善の策だったのです。
このように義昭も信長もホンネはどうあれ、お互い利用価値のあるビジネスパートナーとしてオトナの関係が保たれておりました。
信長は、決して将軍をないがしろにした革命児ではなく、最後まで幕府の秩序と将軍へのリスペクトは忘れていなかったのです。
信長の軍事力に陰りが見え始めどうなる!?
この後、信長は畿内に潜り込んだ三好三人衆を【野田・福島の戦い】であと一歩まで追い詰めます。
しかし、本願寺の突然の蜂起と比叡山まで押し出してきた朝倉家に背後を突かれ、三好家と渋々和睦。
続く【志賀の陣】でも延暦寺に陣を張った朝倉家、浅井家との長期戦をこじらせた末に和睦に持ち込み、最悪の事態を切り抜けました。

浅井 長政(左)と朝倉 義景/wikipediaより引用
この頃から義昭は織田家の軍事力に不安を持ち始めます。
畿内一帯は信長の勢力圏でしたが、三好三人衆との和睦によって畿内の一部に三好家の勢力圏が生まれ、それがじわじわと拡大していたのです。
三好三人衆との和睦交渉のときに織田方の折衝役として活躍したのが、三好家宗家の三好義継や元・三好家家老の松永久秀です。
これは織田家と三好家の関係以上に、分裂していた三好家同士に久々の和解をもたらしました。
三好義継の領地は河内半国。
そして松永久秀の領地は大和一国。
キレ者の松永久秀ならば、さらに妄想を抱いたでしょう。
「ここで阿波、讃岐、淡路、摂津半国を支配下に置く三好三人衆と、河内の三好家宗家、そして大和の松永家が再び手を組めば、畿内の大半と四国が三好家の領地になり、天下の大半が我らのものになる。栄光よ、もう一度!」

四国から畿内を制圧する三好家の構想(茶色の拠点)。義昭の大包囲網構想よりも三好家の青写真の方がまだ現実的です/©2016Google,ZENRIN
本願寺や武田にも手を回し……
元サヤに戻った三好家と松永久秀は、ここぞとばかりに畿内乗っ取りを全力で開始。
元亀3年(1572年)、三好義継は河内を南北に半国ずつ分けていた畠山昭高の「高屋城」を攻撃しました。
高屋城は代々河内守護の居城で、そのためよく狙われたのでしょう。
戦国時代では畿内でも随一の攻城戦の多い城です。
本丸は古代の前方後円墳を利用した大城郭でしたが、古墳は宮内庁管理のため、現在では高屋城に誰も入ることができないというマニアにとっても幻の城です。
三好家はこの高屋城を攻略し、河内一国を支配下に置きます。
また、三好三人衆を摂津に誘い入れた摂津池田城の池田知正も、家臣の荒木村重、中川清秀と共に、摂津三守護の一人・伊丹親興を伊丹城に押し込め、同じく摂津三守護の一人で、三好家討伐に出た高槻城の和田惟政を【白井河原の戦い】で敗死させます。
こうして三好三人衆の畿内復帰は、摂津を再び戦国の世に叩き落としたのです。

三淵藤英イメージ(絵・小久ヒロ)
三好三人衆に四国から大軍勢を送り込む阿波三好家の家老・篠原長房は、摂津や河内、和泉など各地の国人衆に三好家に合力するよう調略し、畿内勢力をまとめます。
一方で、遠方の有力大名と手を結び、織田家を挟撃することも忘れません。
三好家は本願寺の寺内町の利権を保護して顕如と何かと仲良くしておりましたので、この顕如の妻(如春尼)と武田信玄の妻(三条の方・三条夫人)が姉妹同士という関係に着目。
武田家とも手を組んで信長の背後をうかがったのです。
三好義継と松永久秀は『三好嫌いの将軍もこれだけ既成事実を積み上げればそろそろなびいて来るだろう』と考えました。
しかし……。
義昭の感情を見誤った松永久秀
用心深い義昭はこれしきのことでは動きません。
動かないどころか摂津で破竹の勢いの荒木村重に講和の使者を立てた信長を支援するように、足利将軍家も荒木村重に使者を派遣します。
また、河内、大和方面に出陣した信長に、義昭は数少ない直轄の援軍も出しています。
松永久秀はたまらず大和の信貴山城に、息子の久通は多聞山城に籠城。
三好義継と久秀の誤算は、信長の、危機対応の異常な速さと、義昭の予想以上の三好嫌いでした。

©2016Google,ZENRIN
織田軍団に包囲された松永父子は結局、大和に籠ったまま出てきません。
義昭は何食わぬ顔で信長の味方をしましたが、信長は畿内を大混乱に陥れた原因を、畿内勢力をまとめきれなかった将軍義昭の政治力や統率力の無さにあると考えます。
また、織田家に内緒でコソコソと各地の大名に御内書を出してまくる義昭の姿勢にも不信感を抱きました。
一方の義昭も、織田家の軍事力に不安を感じながら、三好家による畿内支配も阻止したい。
そのために地方の有力大名も積極的に巻き込んで上洛を促し、畿内の織田色と三好色をできるだけ薄めようと努めていたのです。
幸い織田家と敵対する朝倉家や浅井家、さらに遠方には武田家や上杉家、毛利家など足利将軍家をリスペクトしてくれる田舎、おっと失礼、地方の大大名は数多く存在します。
彼ら有力大名との友好関係をさらに強固に築き上げることで、義昭は織田家や三好家のカウンターとしました。
義昭が唯一使える武器は、諸大名に絶対命令が出せる「将軍御内書」しかありません。
このように畿内で三好家と組もうが織田家と組もうが、各地の諸大名と直接誼みを通じておくことが足利将軍家にとって最もリスクが低く生存可能な戦略だと分かります。
有名な信長包囲網も、全国に密書を飛ばして包囲網を敷くという壮大な陰謀を義昭が構想したのではない気がします。
三好家の遠交近攻策に便乗しつつ、畿内での軍事力が相対的に下がってきた織田家と、畿内で再び勢いを増す三好家との勢力均衡の上で、義昭がふんぞり返って「どっちも気に入らないねぇ」と余裕を見せるため、各地の戦国大名を巻き込んだ結果に過ぎないのではないでしょうか。
信長の大義名分とは!?
元亀3年(1572年)9月、信長と義昭が袂を分かつ決定的な出来事の一つに、信長が義昭に対して17か条のきつ~い意見書を突きつけた出来事がありました。
この意見書は信長公記にも詳しく記されています。
一言でまとめると「いい加減、将軍らしい仕事して下さい」という、至極真っ当な意見が書かれています。
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信長が義昭に本気でダメ出し「殿中御掟」「十七箇条意見書」には何が書かれている?
続きを見る
信長は特に、朝廷に対する将軍の職務を懇々と説教しています。
前述した通り、天下の政治、特に朝廷との調整は将軍の専権事項です。
17カ条の意見書の内容から、朝廷や貴族たちから将軍義昭に対する不満が相当出ていたことが分かります。
信長はこの朝廷の意向を大義名分とし、将軍の専権事項である天下の政治に物申したのでした。
この時点でついに信長は、将軍の職務には踏み込まないというタブーに挑戦したといえるでしょう。
これは義昭に離反されたときに朝敵扱いされないよう、朝廷にいち早く根回しをするため、また各地の大名に手紙を送りつけて自らの正統性を宣伝する目的もあったとも云われています。
情報戦の用意周到さで義昭は信長に既に遅れを取っていたのです。
ついに山が動いてしもた!
元亀3年(1572年)10月、武田信玄が大軍を率いて西進を始めました。
遠江をあっという間に席巻し、三河へ。
武田信玄の西進は、当初は三好家の依頼を受けた本願寺の顕如からの要請と、近江で本願寺の権益を保護する関係にある浅井家からの要請で、上洛を促すというより織田家の背後とその同盟者である徳川家の領地を挟撃する目的で要請されました。

紫色が武田軍で緑色が徳川軍、そして赤色が織田軍/©2016Google,ZENRIN
この反信長連合は三好家、本願寺、武田家、朝倉家、毛利家、浅井家、六角の残党、そして近江を中心とした寺社、国人勢力から成っております。
義昭は、信玄が【三方が原の戦い】で徳川家康を叩きのめしたタイミングで、この連立に乗っかっり、武田家に上洛を要請します。
義昭は、織田家でも三好家でもない、武田家という理想の軍事力をゲット!

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
ついに信長との断交を決意したのです。
では、このピンチを信長はどう凌いだのでしょうか?
各個撃破に必要なのはスピードだ!
将軍自らが信長に対して挙兵するという断交に対し、信長が取った戦略は?
各地に散らばる敵に連携を取られる前に「各個撃破」することでした。
各個撃破の戦術は、軍の素早い移動と敵の分断工作がキモとなります。
織田軍団の移動は他勢力に比べると元々かなり素早い方ですが、信長はさらにスピードを上げるために琵琶湖の水運を利用。
佐和山城―坂本城間の琵琶湖上に舟を活用した進軍ルートと防衛線を構築しました。
これにより、湖北からやってくる朝倉、浅井家の琵琶湖上の進軍を阻止し、また陸路からの進軍に対しては佐和山城と坂本城で街道を封鎖して南下を阻止する分断工作に出たのです。
さらに信長は密かに荒木村重に摂津一国の支配権を約束して味方に付けます。

荒木村重/wikipediaより引用
山城国でもすでに味方につけていた細川藤孝に、京都の将軍の動きを逐一報告させ、大和国では松永久秀を独力で破った筒井順慶を味方に獲得。
大和国の中央にくさびを入れて松永家の多聞山城と信貴山城を東西に分断します。
この間、信長は相変わらず抵抗を続ける浅井・小谷城の包囲網を狭めつつ、横山城の羽柴秀吉や竹中半兵衛による北近江国人衆の切り崩しを行っておりました。

荒木村重に従う中川清秀、高山父子も密かに織田家への寝返りを画策します/©2016Google,ZENRIN
この信長の分断工作に臆することなく朝倉家が越前から大軍勢を率いて北近江に陣を張れば、山城国での足利将軍家の挙兵と、武田信玄の西上は信長にとてつもないプレッシャーを与えるものになったでしょう。
しかし、何を思ったか朝倉義景は「冬支度あるから帰りますわ」と荷物をまとめて越前に帰ってしまうのです。

朝倉義景/wikipediaより引用
これにはさすがの武田信玄も激怒。
相変わらずの朝倉クオリティーにいぶし銀の戦国大名も振り回さっぱなしなのです。
しかし「信玄西上!」の報に、もう完全にお祭り状態の足利義昭は、ついに織田家に対して挙兵してしまいます。
この一件からも足利義昭の方が、朝倉義景よりも地政学的な意味を理解し、極めて高い戦略眼を持っていたことが分かります。
将軍義昭による対織田家の戦略とは!?
元亀4年(1573年)2月、義昭は南近江の一向一揆を糾合して軍事力を増強します。
足利義昭の大戦略は、武田信玄と共に東西から織田家を挟撃することです。
そのために信玄の尾張、美濃侵攻開始まで山城国および京都を防衛しなければなりません。
具体的な防衛戦略として、義昭は京へ通じる2つのルートを城郭を築城することによって遮断します。
それが石山城(砦)と今堅田城(砦)です。

義昭が一人で考えたというより、三好家や本願寺の参謀がついていたのでしょう。そのくらい的確な防衛線です/©2016Google,ZENRIN
石山城は古来より京都防衛の要衝である瀬田の渡し付近の伽藍山もしくは大平山(諸説あり)の山頂に築城されました。
一方、今堅田城は坂本城の北、ちょうど琵琶湖の両端が狭くなっている場所に築かれた湖城です。
これは信長自慢の佐和山城―坂本城の琵琶湖水運のルートを遮断し、坂本城を孤立させることができます。
以下の坂本城の記事で、
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坂本城の築城が京都防衛を永遠に確立させたと書きました。
しかし、義昭と対立した今となっては、京都防衛の要から、京都侵攻への最前線の城となります。
比叡山の仏教勢力無き今、ほぼ無傷で洛中へ侵攻できる絶好の位置にあり、無防備な京の東側面は坂本城でがっちり押さえられています。
義昭にとっては、この坂本城を最初に無効化することで、京都を守りながら近江方面への道を開き、浅井家や朝倉家、そして武田家との連携が可能となるのです。
このように義昭は意外にも【的確な防衛戦略】を敷いています。
ただ単に武田信玄の後詰を待つだけではなく、敵地に突出した要衝に2つの城を築き、陸上と水上の侵攻ルートを阻み、信長の京都侵攻をできるだけ遅らせるという積極的な防衛戦略。
詳細は以下の記事に譲りますが、浅井 長政に、少しは見習えと言いたいくらいです。
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対する信長の戦術とは?
義昭の軍事行動に対して信長は、どうしたか?
長光寺城の柴田勝家、肥田城の蜂屋頼隆、佐和山城の丹羽長秀、そして坂本城の明智光秀をすぐさま派遣します。
柴田勝家は、まだ築城中の瀬田の石山城に殺到し、これを手際よく落とします。

柴田勝家/wikipediaより引用
ここは織田軍団の真骨頂、スピードの勝利でした。多少、軍備や陣形が整っていなくても、城が完成するまでのわずかな隙を狙うには、早く取り掛かることこそが重要です。
続いて今堅田城にとりかかります。
今堅田城は、三方を琵琶湖に囲まれた湖に突出した砦で、陸地からの攻撃正面が1つに限定されるため、攻撃側には攻めにくく、守備側には守りやすい城です。
さらに琵琶湖を後背地にしているため、琵琶湖上から舟での補給や退却も可能とする湖城で織田方には苦戦が予想されました。
しかし、信長は既に琵琶湖の活用術を十分に心得ています。
三方が湖なら「湖から近づけばいいじゃないか!」と発想を転換し、明智光秀に命じて、坂本城から船で出撃させます。
こうして明智光秀が琵琶湖上から船で城に近づき、火を放ち猛攻を加え、今堅田の守備兵は数日で砦を明け渡してしまいました。

明智光秀/wikipediaより引用
義昭の誤算は、琵琶湖の制水権を信長がガッチリ握っていたことでした。
佐和山城と坂本城を結ぶ湖上の進軍及び防衛ルートにくさびを打ち込むという意味では今堅田城の位置は絶妙でしたが、ルートを遮断するには一点では無理です。
義昭には琵琶湖に直線を引くためのもう一点、つまり対岸から後詰めを繰り出してくれる勢力がありませんでした。
これまでのように堅田衆や近江の国人衆が琵琶湖の水運や利権を握っていれば、琵琶湖に突出した湖城を築いても湖からの後方支援を得られたのですが、信長が琵琶湖を取り巻く主要な港湾を押さえている限り、それは望めません。
せめて浅井家の山本山城が管轄するの尾上湊(おのえみなと)あたりから後詰めの援軍は欲しいところでしたが、これも来ませんでした。
湖上ネットワークを築いた信長の先見性
ここで日本の三大湖城について押さえておきましょう。
◆日本三大湖城
坂本城
大津城
膳所城(ぜぜじょう)
すべて三方を琵琶湖に囲まれた、琵琶湖岸の城です。
時代がそれぞれ織田期、豊臣期、徳川期とずれており、時代によって城の持つ意味も違います。
湖城の絶対条件は、琵琶湖の制水権を同時に有していること。
坂本の町は元々、近江国中に寺社領を持つ比叡山延暦寺の門前町として栄えた町でした。
そこに坂本城を築城することで、比叡山を越えて京へ向かうルートを確保。
坂本城は最終的に【佐和山城―長浜城―安土城―大溝城】という琵琶湖の東西南北に張り巡らされた防衛網によって琵琶湖側の後方が完璧に守られます。
これによって応仁の乱以降、不安定だった東からの京都防衛の要として機能します。
ここへ侵攻するには坂本城だけではなく、琵琶湖も完全に掌握しなければ京都の東から攻め込むことをほぼ不可能にしました。
坂本城はこのように京都への入り口として、そして琵琶湖の航路も押さえる戦略要地としての意味を持つ重要な城だったんですね。
豊臣期の大津城は、琵琶湖の水運と商業地「大津」の港町を城下町に取り込むように築城された城です。
秀吉の天下統一、惣無事令により、近江でおなじみの国人衆同士の利権争いも減っており、特に水運や航路を海賊のような実力行使も辞さない特定の国衆に押さえられることはなくなりました。
こうなると城と城で水運ルートを保持して、自ら警備する必要はなくなり、物資の集積地、特に最終的に京都へ向かう物資が集まる港町を城によって押さえるほうが支配者にとって重要となってきます。
これが大津の町です。
信長の時代から商業地を取り込む城が各地に築城され始めましたが、秀吉がこれを継承したといえるでしょう。
ちなみに湖城で唯一、戦闘が起こったのが、関ヶ原の戦いの前哨戦である【大津城の戦い】です。
城主の京極高次が突如東軍に寝返り、わずか3千の手勢で1万5千の西軍を相手に大津城で9日間にも渡り引きつけました。
最終的に立花宗茂が高所から大砲を撃ち込んで、同城は開城しましたが、その日がまさに関ヶ原の戦い当日であり、結果的に関ヶ原に向かう西軍の増援を阻むことに成功しました。

立花宗茂イメージ(絵・小久ヒロ)
西軍の諸将は、湖城は琵琶湖方面から包囲するというセオリーを踏襲しなかったために多大な犠牲と時間を費やしてしまい、関ヶ原に間に合わなかったのです。
真田昌幸による【第二次上田城の戦い】と同様の戦いが西でも行われていたんですねぇ。
なお、江戸期になると、膳所城(ぜぜじょう)が瀬田の大橋付近に築城され、琵琶湖水運にとって劇的な変化が起こりました。
古来より日本海の北陸や敦賀から京、大坂への物資の輸送ルートとして栄えてきた琵琶湖水運でしたが、江戸期に入り北廻、南廻りの航路が開発され、京や大坂に物資を運ぶのに琵琶湖を必要としなくなったのです。
これにより琵琶湖水運は衰退し、湖城の戦略的意味にも変化が起こります。
琵琶湖水運の利権のうまみも減ると、この地域は水運ルートや港町の防衛よりも江戸と京都を結ぶ街道の防衛の方が戦略的に重要となってきます。
膳所城は、琵琶湖を制する城というより、街道を押さえる城としての役割が大きくなりました。
実際、同城は湖城ながら街道に近い場所に築城され、もはや琵琶湖の制水権を確立するための城ではなく、中山道を押さえる城として位置付けされました。
このように日本三大湖城とひとくくりにされ、すべて琵琶湖に突き出た縄張りという共通点を持ちながら、築城された時代背景が違うために、各城の持つ意味は全く異なるのです。
信長の時代は、まだ浅井家が尾上湊(おのえみなと)などの湖北の港を押さえていて、琵琶湖を巡る勢力圏争いの真っ最中でした。
今堅田に砦を築くという義昭の目の付け所はよかったのですが、肝心の朝倉、浅井の後方支援がなければ湖城は持ちません。
一方で強固な湖上ネットワークを築いた信長の先見の明が光る戦いで、のちの安土城築城のコンセプトにつながるエポックメイキングな戦いだったといえるでしょう。
「信玄死んだ 日本死ね!」by 義昭
元亀4年(1573年)2月、今堅田、石山の城があっさり落ちると、将軍義昭の風向きが悪くなります。
義昭の軍勢は近江から撤退。
北近江の浅井家も小谷城に封じ込められたまま、近江各地で決起した寺社勢力や国人衆は、誰からも後詰が期待できない絶望感の中で織田軍団に各個撃破されてしまいました。
琵琶湖上に張り巡らせた防衛網に自信を持った信長は、更に兵力の大量輸送を目指して大船の開発に着手。
家臣の丹羽長秀に命じて佐和山城下の内湖で大船を建造し、武田信玄の西上に備えて兵の輸送力を強化します。

丹羽長秀/wikipediaより引用
織田家と正式に断交した武田家は、3月になると織田−武田の緩衝地帯である東美濃に家臣の秋山虎繁(秋山信友)を信濃から進出させ、信長の本拠地・美濃に迫ります。
一方、京の洛中まで進出してきた織田方に対して、義昭は二条城に籠って徹底抗戦を表明。
しかしここで悲報が義昭の下に入ります。
西上を続けていた武田勢が突如、甲斐へ退却し始めたのです。
どうやら武田信玄が死んだらしいとのことで、織田家にとっては九死に一生を得る出来事でした。

武田信玄の最期を描いた月岡芳年の浮世絵/wikipediaより引用
実は信長は、三方ヶ原の戦い以降、進軍速度を著しく落とした武田勢の動きを既に怪しんでいたといわれています。
石山、今堅田の戦いは、何らかの理由で軍を進めない武田勢の動きを察知して、素早く処理したのです。
さらに追い討ちをかけるように、摂津では荒木村重に調略されたキリシタンの高山友照、高山重友父子が公然と反乱を起こします。
高山父子は、戦死した和田惟政を継いだ17歳の和田惟長を追放し、高槻城を乗っ取り織田家に臣従するのでした。
続いて荒木村重も主家の池田家を完全に乗っ取った上で、織田家に味方します。
割を食ったのは摂津三守護の最後の生き残り・伊丹親興で、彼は将軍決起に賛同して反信長に付いたものの、お隣の荒木村重が信長に寝返りしてしまったために、再び村重に攻められてしまいます。
真面目に将軍に従っていただけで二度も荒木村重に攻められるという、自ら何も行動を起こさない代償はとても高くつきました。
結局、伊丹城は落城。
その後入った荒木村重により有岡城と改名され、そのまま居城となります。
有岡城は後年、軍師官兵衛が1年もの間、幽閉されていたことで有名ですね。

荒木らが寝返ったため畿内では織田方の勢力(赤)が一気に広がるに©2016Google,ZENRIN
義昭への悲報は更に続きます。
元亀4年(1573年)7月、これまで四国から畿内全域に大軍勢を送り込んできた阿波、三好家家老の篠原長房が当主の三好長治に攻め滅ぼされるという珍事が起きました。
篠原長房は長身で文武両道、そして家老格というイケメン武将でした。
が、何事も過ぎたる者はなんちゃらで、他の家臣の妬みを買って讒言に惑わされた三好長治に討ち取られたと云われています。
また、既に織田信長に通じていた三好長治によって手土産代わりに成敗されたとも云われています。

四国でも内乱勃発!この後、阿波三好家は織田家と和解しつつも急速に衰退し、長宗我部元親の侵攻にさらされます/©2016Google,ZENRIN
畿内における三好宗家の戦略は四国からの大兵力によって支えられていました。
しかし、この阿波三好家の内紛によって、畿内への兵力の供給が絶たれ、武田家に続いて三好家も信長包囲網から脱落していきます。
ついに最終戦!槇島城の戦い
振り上げた拳のやり場に困っているであろう義昭に対して、信長は大人の対応で応じます。
朝廷を通じて和議を申し入れたのです。
朝廷には逆らえない義昭は一旦和議を受け入れます。
が、武田信玄の死や阿波三好家の内紛を知ってか知らずか、未だに強気の義昭は同年7月に二条城と宇治の槇島城で再び決起するのです。
しかもここからは、武士の棟梁の血が騒いだのか、義昭は自ら軍事行動を起こしたのでした。
織田方は真っ先に二条城を包囲。
足利将軍派の多い京の上京を徹底的に焼き払い、たまらず二条城は開城します。
二条城には三淵藤英が籠もっていたことが大河ドラマ『麒麟がくる』で知られるようになりましたね。

三淵藤英イメージ(絵・小久ヒロ)
義昭はそれでも徹底抗戦を貫き、山城守護の居城であった槇島城(まきしまじょう)に籠城します。
当時は周辺に「巨椋池(おぐらいけ)」という巨大な池があり、下流の大坂方面から大船で入ることができ、海や湖のない京の都の港の役割を持ち、物流の要衝でした。
後年、秀吉が伏見城を築城したのは巨椋池の北側で、交通と物流の要衝だったことが分かりますね。
槇島城はその巨椋池と宇治川の急流に挟まれ、水に守られた地に築城された代々の山城国の守護所でもありました。

現代では完全に埋め立てられてしまいましたが、槇島城の西側には宇治川に沿うように広大な巨椋池がありました/©2016Google,ZENRIN
槇島城攻めに出た信長配下の将は宇治川の渡河に苦労したと云われています。
ためらう武将たちに「お前らが行かないなら俺が行くぞ!」と信長。
これまでの戦い方からして、こういうときはガチで真っ先に行く信長ですから、その勢いに気圧された諸将が大軍を二手に分けて渡ります。
このとき源平合戦時代の故事に由来して2つの軍に先陣を競わせたと云われてますが、織田方は総勢7万という大軍です。
宇治川のような大河を渡らせるのに渡河ポイントが1箇所だと1日かかってしまうので、軍勢を二手に分けることがあります。
しかし戦いを前にして優勢な軍勢を二手に分けてしまうというデメリットもあります。
例えば【第四次川中島の戦い】において、武田信玄の別働隊が千曲川の渡河に遅れたため、優勢だった信玄の本隊が謙信の本隊に襲われ大損害を受けるということがありましたね。
信長包囲網はついに瓦解
信長の2隊のうち1隊は稲葉一鉄父子を先陣とした美濃衆で、宇治平等院の対岸から押し渡り、平等院一帯を焼き払いました。
もう1隊は佐久間信盛、丹羽長秀、柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉を中心とした信長本隊。
本陣の「五か庄」から真っ直ぐ西向きに宇治川を渡河して槇島城に迫ります。
足利将軍家の軍勢は織田家の2隊が合流する前に、各個撃破を狙ってどちらか1隊を攻撃すべきだったのでしょう。
ところが、この時の織田家の兵力7万に対して足利将軍家の軍勢はわずか4千にも満たないものでした。
信長が2隊に分けたところで3万以上の兵力ですから、渡河ポイントで各個撃破を狙ったところで義昭に勝ち目はありません。
城攻めには敵の数倍の兵力で挑むべき――そんな定石通りの戦略に加えて信長の叱咤で勢いを得た織田軍は早々に攻略。
この後、足利義昭は息子を人質を差し出して京から追放されてしまいます。
★
この戦いの前、信長は何度も義昭に対して講和の使者を立てたといわれています。
しかし朝廷のお墨付きを得ていたとしても4千の足利将軍家の軍勢に対して、信長の大軍勢は明らかに本気です。
義昭には畿内勢力でついてくる味方も少なく、信長はこの戦いを機に、尽力してきた足利幕府の再建をほぼあきらめたのでしょう。
信玄が死に、三好家も内紛で衰退し、将軍義昭は京から追放されて信長包囲網は瓦解。
義昭はこの後、あれほど嫌っていた三好家宗家の三好義継を頼って河内の若江城に入ります。嫌ってはいるものの三好義継は義昭の実妹の夫なのです。
義昭追放後、ドラマ『麒麟がくる』でもありましたように、信長は元号を元亀から天正に改めました。
そして天正元年(1973年)8月、浅井・朝倉攻めに注力し、両家を滅します。
なお、足利義昭の追放で室町幕府は実質滅亡となりますが、それは後世から見た結果論であり、義昭は毛利庇護の下で復帰を画策しており、名実伴った滅亡はもう少し先という見方もありますね。
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