明智光秀や細川幽斎らを通じ、足利義昭に「上洛頼ム!」とせがまれた織田信長。
このとき織田家は、尾張から美濃へと進出しておりましたが、そこからさらに京都(山城)へと進むには間の近江をクリアせねばなりません。
実は近江は重要なエリアです。
都に隣接している国なんだから当たり前だろ、というツッコミはその通りですが、何より【琵琶湖を利用した水運】があり、美濃の信長にとっては非常に大切だったのです。
その道をどうクリアして進んだのか?
今回は、信長上洛戦の流れをあらためて追いかけていきます。
1560年~1567年の戦況確認
義昭の上洛について。
まずは信長や周辺大名が関わった点を時系列順にまとめておきましょう。
◆永禄三年(1560年)
5月 桶狭間の戦いで信長が今川義元を破る
8月 浅井長政が同盟関係だった近江の六角氏に対して反抗を開始し、野良田の戦いで六角軍が敗北
◆永禄四年(1561年)
5月 斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が家督を継ぐ
◆(時期不明、永禄4年前後か?)
信長の妹・お市が浅井長政に嫁ぐ
◆永禄八年(1565年)
5月 永禄の変で十三代将軍・足利義輝が三好氏に殺害される
出家していた義輝の弟・義昭は奈良を脱出して六角氏に身を寄せるが、三好氏の干渉で追い出される
◆永禄九年(1566年)
9月 義昭一行が越前の朝倉氏に身を寄せる
◆永禄十年(1567年)
9月 稲葉山城の戦いで信長が勝利し、大名としての斎藤氏を滅ぼす
ここまでが信長の【尾張→美濃】編、ならびに上洛準備編です。
桶狭間の頃、近江でも歴史が動いていた
あまり並行して語られることはありませんが、浅井長政も永禄三年に六角と死闘を繰り広げており、織田家の桶狭間の戦いと同様、大きな障害に立ち向かっていたんですね。
長政もこれに勝ったからこそ、信長妹・お市の方との婚姻が結ばれたのでしょう。
織田家にとっては、浅井と戦って京都へ行くより、六角を破った長政と手を組んだ方がはるかにメリットは大きくなります。
もうひとつの大きなポイントは足利義輝が殺された【永禄の変】でした(永禄八年=1565年)。
永禄の変で敵に囲まれた13代将軍・義輝が自らの刀で応戦したってマジすか?
続きを見る
この年の12月頃、信長は義昭一行に連絡を取り、
「時が来れば上洛に協力する」
という意思を伝えていました。
しかし、この時点では信長がまだ美濃を攻略し終わっていなかったため、本格的には動けずにいました。
一応、義昭の名で斎藤氏との一時停戦を斡旋してもらったりはしていたものの、約定などアテにしきれないのが戦国時代。
信長も、兄弟や近隣の領主が外敵と通じて……というケースは何度も経験していますし、時間も手間も取られていましたから、これ以上身内の離反は避けたいところです。
そのため永禄九年(1566年)8月から永禄十年(1567年)にかけて、信長は美濃斎藤氏を攻略し、後顧の憂いを取り除きました。
ようやく身内とのもめ事や美濃の件が片付いて、やっと義昭の上洛へ本腰を入れて協力できる体制になったのです。
銅銭千貫文、太刀・鎧・武具・馬などを義昭に献上
そして永禄十一年にようやく上洛。
実際は次のような流れで進みました。
◆永禄十一年(1568年)
7月25日 義昭が美濃に到着
9月上旬 信長、義昭を擁して上洛戦を開始 浅井長政も参加
9月12日 観音寺城の戦いで六角氏が敗北
9月30日 十四代将軍・足利義栄が病死
10月18日 足利義昭、朝廷から将軍宣下を受けて十五代将軍に就任
永禄十一年(1568年)夏に、信長は義昭の迎えとして、以下の武将を越前に送りました。
・和田惟政(義昭の興福寺脱出を助けた人、元々は義輝の幕臣)
・不破光治(お市と長政の婚約をまとめたともいわれる、信長の家臣)
・村井貞勝(行政を得意とした信長の家臣)
・島田秀満(寺社に関する仕事を受け持っていた信長の家臣)
立場や経緯から考えると、惟政が道案内役で、他の三人が信長からの使者でしょう。
一方、義昭側から迎えた武将が明智光秀や細川藤孝(細川幽斎)ですね。
彼らに導かれ、同年7月25日に義昭は無事に美濃入りし、立政寺(岐阜市)に到着。
信長は義昭に銅銭千貫文、太刀・鎧・武具・馬などを献上し、他のお供の人々についても丁寧に歓待したようです。
千貫文の価値
ところで千貫文って?
お金の話が出てきましたので、
「信長は現代だといくらくらいの金額を渡したの?」
というところが気になりますね。
しかし、この時代は統一貨幣がなかったので、千貫文の価値がどれぐらいか、明言するのはなかなか難しいところです。
参考になりそうな比較対象としては、名茶器として有名な九十九髪茄子でしょうか。
永禄元年(1558年)に、松永久秀が千貫文でこの茶器を購入したといわれています。
また、信長はこれより後の時期に、
「優れた茶器は領地と同等の価値を持つ」
という基準を広めました。
領地不足解消のためですが、これは後々まで武家の価値観に影響していきます。
これらを総合して考えると、
【銅銭千貫文=名茶器=一定以上の土地】
という構図が成り立ちますね。
このときのお金は、義昭の当面の生活費として献上されたものでしょう。
となると、新しく将軍になろうという人に対して出す金額としては、概ね妥当な額だったのではないでしょうか。
六角に対しては事前に書状を出すも……
いったんやると決めたら、行動が早いのも信長らしいところ。
義昭が美濃へやってきて二週間もしていない8月7日に、義昭から六角義賢(承禎)への使者が出されたときには、信長の使者も同行させました。
そして六角に対し、次のようなメッセージを送ります。
「義昭公の上洛に協力するべきだ。
異心がない証として人質も出したほうがいい。
無事に義昭公の上洛と将軍就任が成れば、義賢殿は幕府の所司代にもなれるだろう」
現代の信長イメージは、どうにも短気な描写になりがちですが、このときは七日もかけて説得を試みた……と『信長公記』に書かれています。
例によって多少の誇張を考慮するとしても、
「この俺の言っていることに従うのは嫌だと?
ならば力尽くでぶちのめす!!!」
という感じではなかったのでしょう。
この場合の”所司代”は、室町幕府の軍事・警察機能を持っていた侍所の代官です。
本来のトップである所司が廃止されていたため、代官であるはずの所司代が事実上の最高責任者になったのでした。
それなら役職の名前を変えたほうがいい気もしますが、日本史ではよくある話ですね。
余談ですが、似たような例だと、大正時代までの朝廷における最高の女官「尚侍(ないしのかみ・しょうじ)」などがあります。
奈良時代からあった歴史の長い役職ですが、実際に任命された最後の例は、なんと室町時代でした。
そのため、次官にあたる「典侍(ないしのすけ・てんじ)」が事実上の最高職として扱われていたのです。
大正天皇の母・柳原愛子も典侍です。
皇室存続の危機をひそかに救った柳原愛子(大正天皇の生母)女官のトップだった
続きを見る
次回は交渉決裂となった六角氏とのバトルをはじめ、上洛までの道のりを物理的にも記述内容としても駆け抜けていきます。
長月 七紀・記
※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
続きを見る
なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
大河ドラマ『麒麟がくる』に関連する武将たちの記事は、以下のリンク先から検索できますので、よろしければご覧ください。
麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
続きを見る
【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)