六角義賢/wikipediaより引用

信長公記 諸家

信長相手に暗殺やゲリラ戦!六角義賢の戦歴とは~超わかる信長公記110話

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そこへもう一つ知らせが届きます。

【4月13日に、元近江の大名・六角義賢が石部城(滋賀県湖南市)から雨夜に紛れて退散した】

六角義賢は「ろっかくよしかた」と読み、『信長公記』において彼の名前は、アッチコッチに飛んで出てきているため、どんな立ち位置なのか、わかりにくい人物ですね。

元近江の守護で、永禄十一年(1568年)に信長が上洛戦をした際、立ちふさがった大名の一人です。

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石部城からの逃亡~空城には信盛が入る

本拠だった観音寺城(近江八幡市)から逃げ出した六角義賢は、各地を転々としながら織田家への抗戦を続けていました。

今回もその一つ。石部城で抵抗を続けていた義賢でしたが、佐久間信盛の兵に包囲されており、義賢の逃亡で城主不在になった同城には信盛がそのまま入りました。

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この城は、岐阜城から見た場合、京都・大坂両方へ行く道の上に位置していました。

紫色=岐阜城
黄色=石部城
赤色=京都御所

他の道もあるとはいえ、ここでいつまでも粘られると、信長にとってはかなり鬱陶しくなります。佐久間信盛を入れておけば、義賢も戻ってこられません。

 

キリスト教の洗礼を受け

その後、六角義賢は甲賀郡の南部に逃げ延びたと考えられていますが、しばらく何をしていたのか不明です。

七年後の天正九年(1581年)に【天正伊賀の乱】が勃発して、伊賀が信長に平定されます。その後、義賢はキリスト教の洗礼を受けたとされているので、このあたりで抗戦を諦めたのは確実と思われます。

「城を幾度も失いながらも、七年粘った」と考えればあっぱれな根性ですが、なんせ義賢の動向がハッキリしておりません。この間、六角氏の影響力はすっかりなくなったのでしょう。

では、そのまま消えてしまったのか?

というとこれが意外なことに義賢はその後も生き延び、【本能寺の変】を経て、豊臣秀吉の御伽衆(話し相手)となります。

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そして慶長三年(1598年)3月14日に亡くなりました。

血筋も一応は残ります。

長男・六角義治の系統は加賀藩士となり、次男・六角義定の系統は江戸幕府の旗本として、江戸時代も続いていたのです。
ただし、義定の子孫は無嗣断絶となり、途中で義定系→義治系へ婿養子に入ったり、少々ややこしい経過をたどっています。

近江守護という立場からは転落してしまいましたが、血が受け継がれれば、そう悪くもないかもしれません。

義賢は弓術・馬術の名手だったといわれており、義治も豊臣秀頼の弓術師範を務めていたことがあるそうで。こうして見ると「個人的な武勇については、優れた一家だった」とも考えられます。

まぁ、それと大名としての素質はまた別問題なので、難しいところですが。

【編集部注】今回は最後に六角義賢さんという人物をイチから補足説明ということで、基本情報も加えておきました。

 

六角義賢 基本情報

大永元年(1521年)生まれ。父は六角定頼。

初陣は天文7年(1538年)の佐和山城攻めで相手は浅井氏だった。

天文18年(1549年)には、摂津で三好長慶と戦う細川晴元を助けるため出陣するも間に合わず(その後も細川晴元を補佐する)。敵対した三好長慶はその後、浅井久政を動かすようになり、天文20年(1551年)に六角領へと攻め込ませた。

これを撃破したのが義賢。以降、足利義輝と三好長慶の和睦を結ばせるなどして、自身は浅井氏との戦いに注力する。

天文21年(1550年)に父の六角定頼がなくなり、その影響から浅井の勢いが増していくも義賢は踏ん張り、【太尾山城の戦い】や【地頭山城の戦い」に勝利すると浅井との間に和議が成立。嫡男・浅井長政に六角家臣・平井定武の娘を娶らせる。

永禄元年(1558年)足利義輝・細川晴元と共に三好長慶と争い、再び両者を調停するなど存在感を見せつける一方、浅井長政が義賢娘と別離して六角氏と対決すると、義賢は斎藤氏との関係も悪化させる。

永禄3年に【野良田合戦】が勃発。2万5,000の軍勢で肥田城を攻撃すると後詰めにやってきた浅井長政と野良田で戦い、そして大敗となった。

巻き返しを図りたい義賢は、再び美濃斎藤氏と手を組んで、佐和山城を落とすも、このときは磯野員昌に奪われてしまう。

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永禄四年(1561年)に入ると紀伊の畠山高政と手を組み、2万の兵を引き連れて挙兵。三好長慶を追い出し、足利義輝を近江へ避難させると、細川晴之を擁立してそのまま京都を管理下におく。この頃が義賢の人生の頂点だった。

信長の上洛によって近江を追い出されたのではない。息子の六角義治が重心を殺害し、近江の国衆が離反してしまったのだ。結果、浅井長政が六角領へと攻め入り、支配を拡大させていく。

落ちぶれていく六角氏。永禄10年(1563年)には【六角氏式目】を制定するなど、領国支配に注力するが、その翌年の永禄11年に織田信長が浅井長政と同盟を組み、義賢に対して人質を要求してくるとこれを拒否して、敵対関係が鮮明に――。

三好三人衆との連携などで抵抗を試みるもむなしく惨敗。近江の国衆たちは信長の傘下にくだった。

浅井長政とも、織田信長とも敵対関係になった六角義賢。もはや居場所はないと思われたが、元亀元年(1570年)に入り、信長が越前攻めを敢行すると、長政が突如裏切り、近江に再び戦乱が拡大していく。

義賢はすかさず、仇敵だった浅井長政と手を組んだ。

あくまで反信長というスタンスであり、信長が京都から岐阜への帰路、六角義賢の密命を帯びた杉谷善住坊が銃での暗殺を試みるが失敗。後に、鋸挽きで処刑される。

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暗殺に失敗した義賢は甲賀衆を味方につけ、なおも反織田で戦い続け、柴田勝家や佐久間信盛と【野洲河原の戦い】で衝突。

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この戦いでも破れてしまうと、近隣エリアでは天正九年(1581年)に【天正伊賀の乱】が勃発したのは前述の通りである。

結局、六角義賢は信長に一矢報いることはできず、和睦を結ぶに至った。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
『信長と消えた家臣たち』(→amazon
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
『戦国武将合戦事典』(→amazon

 



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