越前の朝倉義景へ攻め込もう――。
というところで突如、浅井長政に裏切られ、命からがら京都へ逃げ延びた織田信長。
信長が絶体絶命の窮地に陥った「金ヶ崎の退き口」無事に帰還できたのはなぜ?
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浅井家の離反の何がマズイって、本拠地・岐阜と京都へのルートが遮断されかかったことでしょう。
岐阜→琵琶湖という西へ進む道だけでなく、その先、南側でも、一度は黙らせた地元の六角氏が立ち上がり、信長の前に立ちはだかったのでした。
むろん、信長としても黙ってそのままにしておくわけはありません。
そこで発展したのが【野洲河原の戦い(落窪の戦い)】でした。
京都への道に立ちはだかる六角軍団
元亀元年(1570年)6月4日。
六角義賢らが南近江の一揆勢を扇動し、野洲川方面へ進出してきました。
これに対し、長光寺城(近江八幡市)にいた柴田勝家と、同じく永原城(野洲市)にいた佐久間信盛も出陣します。
地図で確認してみますと……。
まず織田方が黄色の拠点で、右から
・岐阜城
・長光寺城
・永原城
となっております。
赤色の拠点が、上から
・小谷城(浅井家)
・野洲川(六角家)
となります。
長光寺城と永原城は、どちらも以前は六角氏の本拠・観音寺城(近江八幡市)の支城だったところです。
皮肉といえば皮肉かもしれませんね。
こうして、両者が落窪(野洲市)でぶつかり合い「落窪の戦い」となりました。
「野洲河原(やすがわら)の戦い」とも呼ばれます。
どちらも地名そのままですね。
近江の半分以上が再び織田家の勢力下に
戦いの結果は、意外と規模の大きなものでした。
・三雲定持
・高野瀬美作守
・水原重久
といった六角方の武将と、六角氏の勢力下だった伊賀・甲賀の地侍780人が討ち死にし、織田軍が大勝を収めています。
これによって六角氏の兵力は大幅に低下。
近江の半分以上を再び織田家の勢力下に置くことができました。
信長公記には
『定持の子・成持もこのとき討ち取られた』
とあるのですが、この後の彼の活動が伝わっているので、おそらく誤記だと思われます。
本能寺の最期まで共に過ごした愛刀とは
ちょっとした後日談として、三雲定持が愛用していた刀のお話もいたしますと……。
刀とは、備前派の名工・光忠の作で、この後、巡り巡って信長に献上され、本能寺の変まで使われていました。
一説には、信長が最後の最後まで応戦していたともいわれる、随一のお気に入りの刀だったそうです。
信長の手に渡る前に、三好氏の家臣・三好実休(じっきゅう)という人の愛刀になっていたため、
【実休光忠】
と呼ばれていました。
最終的にこの刀は
・本能寺で焼失した説
・焼身のまま豊臣秀吉と徳川家康に伝わったという説
があり、どちらが正しいかわかりません。
本能寺の変当日に、信長の手元にあった武具や茶道具などは、ほとんど焼失してしまっているので、これだけが残ったとも考えにくいですが……。
焼身となっても後日見つかる例がありますので、もし現代で見つかれば、ビッグニュースになるでしょうね。
長月 七紀・記
※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
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麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)