第2話で触れた「第一次小豆坂の戦い」。
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織田信秀と今川義元による争いでしたが、その後、信秀は、斎藤道三の美濃や、徳川含む今川義元の三河を行ったり来たりしながら戦を繰り返していました。
『信長公記』首巻4節はその頃のエピソードがひとつ書かれています。
「加納口の戦い」または「井ノ口の戦い」と呼ばれる戦のお話。織田家と斎藤家の対決になります。
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まずは時系列を確認
「井ノ口」は現在の岐阜のこと。
織田信長が後に「岐阜」と改めたことで戦国ファンにはお馴染みかもしれません。
ちょっと時系列がわかりにくいところなので、ここまでの流れを一度まとめておきましょう。
天文十一年(1542年)第一次小豆坂の戦い
↓
天正十五年(1546年)信長が元服
↓
天文十六年(1547年)加納口の戦い←今回ここ
↓
天文十七年(1548年)第二次小豆坂の戦い
どの戦がどの年だったか?
これについては諸説あり、『信長公記』の記述をもとに進めて参ります。あしからずご了承ください。
加納口の戦いに関しては、美濃の動向も重要になってきますので、まずは周辺状況の確認から入っておきましょう。
道三が美濃守護・土岐氏を追い出した
ときは第一次小豆坂の戦いと同じ天文十一年(1542年)。
信長のトーちゃんである織田信秀が今川義元と三河を巡って激しく争っていた頃のことです。
お隣の美濃では、斎藤道三が美濃守護・土岐頼芸とその息子・土岐頼次を追放し、いわゆる下剋上を成功させました。
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戦乱のドタバタで守護を追い出したりすることは珍しくなかったとはいえ、基本的には「主君を追い出して自分が後釜になんてケシカラン!」という大義名分は残っています。
信秀もそれを利用し、
「お可哀そうな守護殿、私が助太刀して進ぜましょう^^」(※イメージです)
と、土岐親子に近づきました。
同時に、美濃の北側で国境を接する朝倉氏に連絡を取ります。
実は、織田氏や斎藤氏がちょっかいを出す前、これより30年ほど前に、土岐氏ではお家騒動が起きていました。
当時の守護である土岐政房が、なぜか嫡男の土岐頼武ではなく次男の土岐頼芸を跡継ぎにしようとしたからです。
しかも政房は、かつで自分が似たような目に遭っているのに、わざわざ二の舞を演じるようなことをしています。
何がしたかったんだ一体……。
織田氏にも朝倉氏にも大義名分アリ
最終的に、このお家騒動は【頼武派vs頼芸派】の武力衝突にまで発展。
敗れた頼武は、自分に属していた斎藤利良の縁戚を頼り、朝倉氏へと身を寄せました。
つまり、織田氏にも朝倉氏にも、土岐氏=美濃の正当な守護になりえる人物が滞在していたのでした。
信秀や当時の朝倉氏当主・朝倉孝景にとっては、美濃への足がかりができたも同然です。
「美濃の正当な主はこの方だ! 我らはそのお供をしに来たに過ぎん!」
そんな錦の御旗をかざせば、簒奪者である斎藤氏の大義名分は丸つぶれですし、領民だって元の主に懐くものです。
とはいえ、相手は、かの斎藤道三です。
生っちょろい良識が通用する武将ではありません。
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そうなればチョイスはただ一つ。
信秀は道三と戦うことにしました。
本題である【加納口の戦い】に駒を進めましょう。
お湯や汚物、大岩が降ってくる
天文十六年(1547年)9月始め。
織田信秀が美濃へ侵攻したことで、この戦いは始まりました。
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当初は織田方に勢いがあり、同年9月22日には、斎藤氏の本拠・稲葉山城のすぐ下まで攻め寄せたといわれています。
ここまでくれば勝ち戦同然か?
というところで織田軍は慎重になりました。
そもそも攻城戦は、守る城方が有利なものと相場が決まっています。
特に山城の場合は慎重に攻めなければいけません。
南北朝時代の楠木正成などがわかりやすい例ですが、上からお湯やら汚物やら大岩やらを投げかけられれば、攻めていくほうはたまったものではないからです。
大混乱しているところに矢を射かけられたり、落とし穴に追い込まれたり、一気に被害が拡大しかねません。
そのため、22日の夕方4時頃、織田軍は兵を引くことにしました。
しかし、自軍を半分ほど引き上げたところで、斎藤軍が一気に押し寄せてきたものだからさあ大変。
信秀のすぐ下の弟・織田信康や、主だった武将の多くが討死という大惨事になってしまいました。
中には、信長につけられた家老の一人・青山与三右衛門信昌もいたといいます。
これまた戦国時代では珍しい話でもありませんが、信秀も織田信長も、多くの親族や近臣を失いながら勢力を広げていったのです。
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5000人ほどが討死!さすがに盛りすぎ
『信長公記』では「この戦いで織田方の5000人ほどが討死した」と書かれています。
が、この時期の織田家……というか、信秀にそこまでの動員力はありません。
5000人を「このときの織田軍の全兵力」というならまだ現実味があります。
無意味に数を盛ったのではなく、「そのくらい多く思えるほど、凄まじい負け戦だった」という心情が表れているという意味でしょう。
というのも、このときまだ、信長公記の著者である太田牛一は織田家に仕えていない――どころか信長のいる織田家と反目する勢力に属しておりました。
彼は元々は僧侶で、還俗した後、名ばかりの尾張守護・斯波義統(よしむね)の家臣になり、その後、織田家に仕えたという経歴となっています。
当時の義統は、織田家本筋にあたる大和守家・織田達勝(たつかつ)に庇護されています。そして達勝は、ほぼ新参勢力といっていい信秀を敵視しておりました。
牛一が織田家に仕え始めたのは天文23年(1554年)前後。
つまり、天文十六年当時の牛一にとって、信秀や信長は敵同然の存在であり、敵の被害が大きければ喜ぶのは当たり前のことですから、数を盛るのもおかしなことではありません。
図式にするとこんな感じですね。
斯波義統(太田牛一)・織田達勝
vs
織田信秀・織田信長親子
義父・道三の戦上手ぶりを称えてアゲアゲ
また、「敵の数が多い・強いほど、それを打ち破った味方の偉大さ」が際立ちます。
ゆえに『信長公記』に限らず、歴史書や講談の類では「それ、一ケタ多くね?」みたいな話はよくあること。三国志(演義)なんかでもよく使われる手法ですね。
今回の場合、敵であり信長の義父でもある道三の戦上手ぶりを称えることによって、
「その道三に認められた信長様はもっとすごいんだぞ!」
と強調する意味合いも出る……というわけです。
ちょっとややこしいですが、執筆時の太田牛一は
「信長サマ、神!」
という立場ですから、信秀の負けが大きくなっても結果的に信長様アゲアゲになっていれば問題ないのでしょう。
歴史書の一番重要なところは「正しい記録が書かれているかどうか」です。
同時に、著者の性格や背景を鑑みた上で「こういう狙いがあって、こんな風に記されているんだろうなぁ」と推測していくのも楽しみのひとつといえましょう。
★
さて、この天文十六年の戦いで討死したうちの一人・千秋季光という人物が、次回『信長公記』首巻の5節に少し関わってきます。
最近人気のアレに関わるお話です。お楽しみに。
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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
大河ドラマ『麒麟がくる』に関連する武将たちの記事は、以下のリンク先から検索できますので、よろしければご覧ください。
麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)