磯野員昌

磯野員昌(落合芳幾作)/wikipediaより引用

浅井・朝倉家

近江を代表する戦国武将・磯野員昌~織田家vs浅井家の行方を左右する勇将だった

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磯野員昌
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織田家臣となっても忠実に働いていた

もちろん、無条件ではありません。

員昌は、信長の甥・津田信澄を養嗣子として迎えさせられています。

信澄はかつて信長と家督争いをした弟・織田信勝(信行)の息子です。本人が事件当時幼かったこともあり、親族かつ家臣として信長に仕えていました。

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員昌の降伏より前から高島郡に信澄が行っていたようですので、現地の地ならしを員昌に手伝わせ、将来的には信澄に……という意図があったのかもしれません。

織田家臣となってからの員昌は、忠実に働きました。

代表的な出来事としては、

・天正元年(1573年)9月 杉谷善住坊の捕縛(信長公記101話)

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・天正三年(1575年)8月 越前一向一揆戦(信長公記125話)

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これらに員昌が参加していたことがわかっています。

詳しくはそれぞれの記事をご参照ください。

 


突如として織田家を出奔 行方は……

この裏で、信澄への権力移譲も企図されていたと思われます。

なぜかというと、天正五年(1577年)あたりから、信澄の名で領内の寺院へ領地を安堵する書状が発行されているからです。

員昌はこのことが我慢ならなかったのか。

果たして真意は不明ながら、天正六年(1578年)2月3日、突如として織田家を出奔してしまいます。信長からの叱責があったからともされていますが、細かな事情は記録されていません。

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織田家が捜索をした形跡がないことからすると、何か許しがたいこと、あるいはその後の戦略に影響を与える内容だった可能性はありますね。

そうなるとやはり信澄への家督譲渡を迫られ、員昌が拒否したという線でしょうか。

高島郡は信澄の領地になっておりましたが、彼が磯野氏を名乗った形跡はありません。

領地は信長の意向でどうとでもなっても、名字はそうもいきませんので、員昌にとっては領地より名を譲ることが許しがたかった……と考えれば、辻褄は合います。

出奔後の員昌の行方は、明らかになっていません。

【本能寺の変】後、高島郡に戻ってきて帰農していたともいわれています。

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同説が真実であれば、そのまま八年ほど穏やかに過ごし、天正十八年(1590年)9月10日に亡くなったとか。それとは別に、磯野氏発祥の地・伊香郡高月に蟄居していたという説もあります。

員昌ほどの有能な武将を、他の大名や秀吉が捜索しようとしなかったのも、少々気にかかるところですね。

磯野員昌(落合芳幾作)/wikipediaより引用

大名家としての磯野氏はここで終わりましたが、息子たちが血筋を伝えています。

員昌の息子・磯野行信は、その後、石田三成や藤堂高虎に仕え、家を残しました。

また、娘が備中松山藩初代・小堀正次に嫁ぎ、茶人としても名高い小堀遠州(政一)を産んでいます。

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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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