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【磯野員昌】
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主君から疑われて人質を殺され……
織田軍がその下を去ったのは翌元亀二年(1571年)2月のこと。
包囲が解かれたのではなく、員昌が降伏したため、戦いが終結したのです。
主君から疑われて人質を殺され、孤立しながらも持ちこたえたのですから、員昌の武将としての能力は申し分ないものだったといえるでしょう。
籠城戦というのは、基本的に「援軍が来ると思うからこそ」持ちこたえられるものです。
逆に、そうでなければ、城内の戦意を保てない。
このときの佐和山城のように、援軍の見込みもないどころか、既に主君にも疑われていた状況で、それでも半年以上を過ごすのは、それだけで難しいこと。
やはり磯野員昌が「日頃から城内の統率をしっかり取っており、家臣たちにも信頼されていた」という何よりの証明でしょう。
味方につければ、これほど頼もしいこともありません。
そのため、信長は降伏してきた員昌を、非常に高く評価しました。
佐和山城こそ信長の信頼する腹心・丹羽長秀に与えられましたが、その代わりに近江の高島郡が員昌に与えられます。
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重要エリアを任されていた員昌
実は当時、琵琶湖の周辺には織田家の主要な武将が数多く配置されていました。
岐阜から京都への上洛ルートにもなっており、六角氏だけでなく浅井氏あるいは他の諸勢力から狙われやすいポジションです。
ゆえに以下のような信頼の篤い重臣たちが置かれました。
・横山 木下藤吉郎
・佐和山 丹羽長秀
・安土 中川重政
・長光寺 柴田勝家
・永原 佐久間信盛
・宇佐山 明智光秀
・高島郡 磯野員昌
高島郡は現在の滋賀県高島市とほぼ同じで、琵琶湖の北西側です。
岐阜を本拠とする信長からすれば、最も目が届きにくいエリア。
また、浅井氏の同盟相手である朝倉氏の領地とも、比較的近いところです。
なぜ朝倉義景は二度も信長を包囲しながら逆に滅ぼされたのか?41年の生涯まとめ
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穿った見方をすれば、いつ浅井・朝倉方に出戻ってもおかしくはありません。
そこを任せているあたり、信長は員昌の能力と人柄を信頼したのでしょう。あるいは「やれるものならやってみろ」と発破をかけたのかもしれませんが。
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