武田信義

韮崎市役所前の武田信義像/photo by タイスキ大好き

源平・鎌倉・室町

甲斐武田氏を守り抜いた武田信義の生涯~信玄のご先祖様は頼朝に息子を殺される

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東国で三人の源氏が

その後、武田信義は駿河・遠江方面に向かい、10月半ばには【鉢田の戦い】で平家方の目代(もくだい・代官)を撃破。

同時期は、頼朝が各地の武士や源氏の縁者に連絡を取っており、信義のもとにも北条時政がやってきていました。

鉢田の戦いのときも、信義軍に時政が参加していました。

二人の間には特に逸話もないようですから、まぁうまくやっていたのでしょう。

北条時政/wikipediaより引用

また、この年(治承四年=1180年)の末に蜂起した近江源氏とも連絡を取っていたようです。

武田信義は、源平~鎌倉期の武士としてはなかなか政治的感覚が優れているといいますか、いろいろと気の回る器用なタイプといえそうです。

信義はそのまま【富士川の戦い】で頼朝と合流し、勝利を収めると、朝廷からもその存在が認められるようになっていきました。

つまり当時の東国は、源頼朝・武田信義・源義仲という三人の源氏が並立していたんですね。

結果、信義の親族から、頼朝へ近づく者や義仲と同道する者なども出始めましたが、それらについて信義が干渉した形跡はないようです。

しかし頼朝との間には、暗雲が立ち込めたこともありました。

養和元年(1181年)のことです。京都で“頼朝の耳目”と呼べる存在だった三善康信から頼朝に向けて、こんな報告が入りました。

後白河法皇が、武田信義に命じて頼朝様を討たせようとしているようです」

すかさず頼朝が、信義に直接問い合わせると、信義は自ら鎌倉へやってきて弁明の機会を求めました。

「私にはそんな命令は来ていませんし、頼朝様に背くつもりもありません」

信義は、そう述べた上で、誓約書を書いて持ってきたため、頼朝は対面を許します。

それでも左右に三浦義澄梶原景時などの側近を同席させた上で……という、緊迫した状況。

三浦義澄/wikipediaより引用

信義はその空気を察したのか。

自ら刀を外して預け、頼朝が退席してから返してもらったのだそうです。

 


平家討伐に向けて協力体制

命がけの面会で疑いが晴れたのでしょう。

武田信義はその後、頼朝軍と協調した動きを見せています。

源範頼源義経と協力し、源義仲の討伐や【一ノ谷の戦い】【壇ノ浦の戦い】に参加していました。

源義経/wikipediaより引用

こうして平家打倒の一翼となった信義と甲斐源氏。

厚遇されてもおかしくなさそうなものですが、その存在は結局、頼朝にとって脅威と受け取られていました。

少々時系列が前後します。

それは平家滅亡前の元暦元年(1184年)6月16日のことでした。

武田信義の子・一条忠頼が鎌倉に招かれ、宴の席で暗殺される

という大事件が起きていたのです。

その二ヶ月前に、源頼朝は長女・大姫の婚約者だった木曽義高を殺害。

大姫

歌川芳虎が描いた大姫と木曽義高/wikipediaより引用

二人を排除したことにより、甲信の地において頼朝の力が強まった……と見ることもできるでしょう。

 


甲斐源氏は力を弱めて存続

一方で、甲斐源氏の中でも親・頼朝派の加賀美遠光については、頼朝が信濃守への任官を上申していたりします。

平家を滅ぼした後、鎌倉に武士の政権を根付かせたい頼朝としては、山を越えれたところに自分と匹敵する勢力が存在し続けるのは避けたいところ。

奥州藤原氏の始末も考えていたでしょうから、甲斐源氏とまでガチバトルをするのは得策ではありません。

そんなわけで、次世代の殺害&親族の切り崩しという手段をとったのではないでしょうか。

だとすれば、この頼朝の作戦は首尾よく進み、甲斐源氏は大幅に力を弱め、鎌倉政権の御家人として存続してゆきます。

信義も世情の流れを悟ったのでしょう。

事件に対し、大きな動きを見せていません。

吾妻鏡』によると文治二年(1186年)3月9日に信義が亡くなったとされていますが、この後も信義の名が登場する場面があるため、正しくない可能性もあります。

この扱い自体が、当時の甲斐源氏、その勢力の衰えを表している……ともとれるでしょうか。


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長月 七紀・記

【参考】
『国史大辞典』
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
ほか

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