こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【富士川の戦い】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
東大寺の大仏を燃やす
当然、平維盛は、清盛にこっぴどく叱られました。
しかも反感を買っていた寺社勢力がここぞとばかりに「平家は腰抜けw」と囃し立てます。
これを収めるため、清盛は息子・平重衡(しげひら)を奈良へ攻め込ませ、東大寺など主要な寺院をあらかた焼いてしまいました。
奈良の大仏こと東大寺盧遮那仏像はこのときほとんど失われてしまったのです。
今見ている大仏は、江戸時代に造り直されたもの。
清盛は、自分も出家してるくせに、お寺を攻めるとか意味がわかりません。
運悪く風の強い日だったため、寺院関係者だけでなく一般市民にも及び、千人単位の死者を出したといいます。
居並ぶ諸将の中、義経が登場
時は戻って富士川の戦いの翌日、10月21日。
関東の頼朝の下には一人の客が訪れていました。
居並ぶ諸将の中、彼は「初めまして、弟です」と名乗ります。
この若者こそ有能な源義経でした。
義経が頼朝のところにやってきたのは富士川の戦い直後だったのです。
平家が自分から評判を落としてくれたとはいえ、まだ頼朝の足場も頑健とはいえない頃。
血縁の真偽に確信がなくても、自分から馳せ参じてくれた味方の存在は頼もしかったことでしょう。
もう一人の弟・源範頼のほうはいつ合流したのかわかりません。
源範頼が殺害されるまでの哀しい経緯 “頼朝が討たれた”の誤報が最悪の結末へ
続きを見る
元々の生まれが遠江(現・静岡県東部)ですし、富士川の戦いで前線にいたのは範頼が行動を共にしていた甲斐源氏ですので、いてもおかしくはないんですが記録にありません。
ともかく、これにて源氏はますます結束を強め、平家はますます混迷していくのでした。
あわせて読みたい関連記事
なぜ平清盛は平家の栄華を極めながらすぐに衰退させてしまったのか
続きを見る
源頼朝が伊豆に流され鎌倉幕府を立ち上げるまでの生涯53年とは?
続きを見る
平維盛が平家敗北の戦犯なのか~富士川の戦いで惨敗した後はどうなった?
続きを見る
武田信義~頼朝に息子を殺されても甲斐武田氏を守り抜いた生涯に注目
続きを見る
武田氏 佐竹氏 小笠原氏らを輩出した甲斐源氏の祖・源義光はどんな武士だった?
続きを見る
戦の天才だった源義経~自ら破滅の道を突き進み兄に追い込まれた31年の生涯
続きを見る
長月七紀・記
【参考】
国史大辞典
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
富士川の戦い/wikipedia