富士川の戦い

富士川と富士山

源平・鎌倉・室町

富士川の戦いで水鳥は飛び立っていない?現実は武田信義軍vs平維盛軍だった?

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東大寺の大仏を燃やす

当然、平維盛は、清盛にこっぴどく叱られました。

しかも反感を買っていた寺社勢力がここぞとばかりに「平家は腰抜けw」と囃し立てます。

これを収めるため、清盛は息子・平重衡(しげひら)を奈良へ攻め込ませ、東大寺など主要な寺院をあらかた焼いてしまいました。

 

平重衡/wikipediaより引用

奈良の大仏こと東大寺盧遮那仏像はこのときほとんど失われてしまったのです。

今見ている大仏は、江戸時代に造り直されたもの。

清盛は、自分も出家してるくせに、お寺を攻めるとか意味がわかりません。

運悪く風の強い日だったため、寺院関係者だけでなく一般市民にも及び、千人単位の死者を出したといいます。

 


居並ぶ諸将の中、義経が登場

時は戻って富士川の戦いの翌日、10月21日。

関東の頼朝の下には一人の客が訪れていました。

居並ぶ諸将の中、彼は「初めまして、弟です」と名乗ります。

この若者こそ有能な源義経でした。

義経が頼朝のところにやってきたのは富士川の戦い直後だったのです。

源義経/wikipediaより引用

平家が自分から評判を落としてくれたとはいえ、まだ頼朝の足場も頑健とはいえない頃。

血縁の真偽に確信がなくても、自分から馳せ参じてくれた味方の存在は頼もしかったことでしょう。

もう一人の弟・源範頼のほうはいつ合流したのかわかりません。

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元々の生まれが遠江(現・静岡県東部)ですし、富士川の戦いで前線にいたのは範頼が行動を共にしていた甲斐源氏ですので、いてもおかしくはないんですが記録にありません。

ともかく、これにて源氏はますます結束を強め、平家はますます混迷していくのでした。


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【参考】
国史大辞典
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon
富士川の戦い/wikipedia

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