狩野永徳

『唐獅子図屏風』/wikipediaより引用

文化・芸術

狩野永徳の生涯|唐獅子図屏風を手がけた信長の御用絵師が“天下一”となるまで

2024/09/13

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狩野永徳の生涯
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「死を賭した」100枚もの障壁画

城内部で100枚もの障壁画――言わば絵筆を介した織田信長との真剣勝負であります。

「死を賭した」とは冗談でもなんでもありません。

万が一、信長が絵画を気に入らなければ、何か別の理由で死を賜ることも大いにありえたからです。

織田信長の肖像画

織田信長/wikipediaより引用

そんな事態に備え、永徳は安土移住前に、弟へ家督を譲り、別家を立てさせていました。

パトロンと画家、あるいはライバル――個性の強い人物たちのぶつかり合いは、しばしばその時代を代表する傑作を生み出します。

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記録によると、永徳が3年の歳月をかけ、心血注ぎ込んで制作した安土の作品群100枚は、儒教や仏教などの宗教を主題としたもの、大樹、龍や虎、鳳凰などあらゆるモチーフが、金地の上に濃厚な色彩で描き出されていました。

残っていたら、同時代そして後の世代にどれほどの影響を与えたでしょうか。

しかし、それはまさしく夢幻の如くなり。

1582年、本能寺の変で織田信長が討たれると、程なくして安土城も燃え、永徳の手がけた作品群も焼け落ちてしまいました。まるで信長の後を追うかのように。

織田信長(左)と明智光秀の肖像画
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新たなパトロン秀吉のもとでも飛翔

引き立ててくれるパトロン。
そして、我が子とも言うべき作品たち。

これらを失ったことは、永徳をどれほど打ちのめしたでしょう。

100枚にも及ぶ力作を焼失した永徳ですが、しかし、心は折れませんでした。

彼は、信長の後継となった豊臣秀吉に仕えます。そして大坂城、聚楽第など、豪華な建造物のために障壁画を描いていくのです。

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さらには秀吉に倣い、他の大名たちも、永徳に注文を寄せるようになりました。

天下人秀吉を筆頭に、重鎮たちのために絵筆をふるう――まさに「天下一の絵師」となったのです。

『檜図屏風』170.3×460.5㎝/wikipediaより引用

しかし、大量の注文を捌くべく、「昼もなく夜もなく」描き続ける日々は、彼の心身を容赦なく削りました。

さらには「天下一」の地位を狙う存在も、迫ってきます。

その名は長谷川等伯。

長谷川等伯
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北陸出身の絵師で、一時期は狩野派の門下にもいた事があるとも言われる、当代きっての絵師でした。

 

天下一の絵師を下克上の牙が襲う

長谷川等伯は、永徳の編み出した「大画様式」を取り入れ、消化。永徳の豪放な画風とは異なる、独自の画風を作り上げます。

それだけではありません。狩野派同様に門人たちを育て、大規模な仕事にも対応できるシステムを整えていたのです。

そんな等伯と、彼が率いる長谷川派が、1590年、ついに牙を剥きました。

秀吉の造営した仙洞御所の対屋を飾る障壁画を、自分たちで請け負おう!と運動したのです。

永徳は驚き、そして焦りました。

かつて義輝を、そして信長を倒した「下剋上」の刃が、自分にも迫ってきたのです。

多忙さから、ただでさえ余裕のなかった永徳は、煩悶に囚われます。もしも相手の台頭を許してしまえば、もしも万が一自分の絵が彼の絵に負ければ……。

等伯たちは、容赦なく狩野派を駆逐にかかるでしょう。「大画様式」も、天下一の地位も、これまでの人生を賭けて築き上げた全てが失われます。

これ以上の悪夢があるでしょうか。

一人の絵師として、何より狩野派の長として、絶対に避けなければなりません。

 

必死になって等伯らの台頭を抑えるも

永徳は、必死にコネをたどり、何とか割り込みの阻止には成功します。

しかし、それから一ヶ月後――ついに過労から、仕事中に倒れてしまうと、ほどなくして亡くなってしまうのです。

享年48。

『花鳥図』聚光院障壁画/wikipediaより引用

振り向かず、ひたすら前だけを見て進む――。

永徳の人生を概観してみると、そんな言葉が浮かんできます。

絵筆を支えに、道を開くための武器としながら、最後まで彼は必死に生きたのです。

そんな彼の生きた証とも言うべき作品は、ほとんどが建物と共に失われ、現在まで残っているのは10点にも満ちません。

ですが、もしその作品の前に立つ機会があったら、思い起こしてください。

筆一本で乱世を必死に生き抜いた。

一人の絵師の人生を。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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文:verde

【参考】
成澤勝嗣『もっと知りたい狩野永徳と京狩野』(→amazon
安村敏信『もっと知りたい狩野派―探幽と江戸狩野派』(→amazon
並木誠士『絵画の変 日本美術の絢爛たる開花』(→amazon
狩野永徳/wikipedia

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BUSHOO!JAPAN(五十嵐利休)

武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・中世・古代・幕末をはじめ、幅広い歴史分野をカバーしつつ、Google Discover 最適化、クラスタ構造にもとづく内部リンク戦略、画像最適化、SEO設計に精通。現在は企業のオウンドメディア運用およびコンテンツ制作コンサルティングも手がけ、歴史 × Web編集 × SEO の三領域を横断する専門家として活動している。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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