ナポレオン3世/wikipediaより引用

フランス

皇帝になるまで苦節44年のナポレオン3世 ビスマルクに追い込まれて廃位へ

自由帝政に切り替え民衆の支持を得る

ナポレオン3世の治世は、大きく2つの時期に分かれます。

まずは、帝位についてからすぐの「権威帝政」と呼ばれる時期です。

(漢字で)書いて字のごとく、お上の権威が強かった頃の話で、
「お上のことを悪く言うな! 庶民どもは皇帝の言うことを聞け!」
みたいな雰囲気でした。

さすがにこの時期ですので(男子)普通選挙は残したものの、裏であれやこれやが行われて恣意的な結果になっており、出版や言論は規制されていたといいます。ヤバいですね。

しかし、そういったものへの不満が高まりきる前に、ナポレオン3世は大胆な手を打ちました。

専制政治とは真逆の自由主義的な政策を多く取り入れ、
【自由帝政】
と呼ばれる方向に切り替えたのです。

選挙が(少し)公正になり、反政府派の人も当選できるようになったり、労働者が団結してストライキを行うこともできるようになりました。
あまりにも方向性が変わったので、他の国には「ナ、ナンダッテー!」とばかりに驚かれたとか。

といっても、これらの政策は「民衆に優しくしてあげよう」という意図で行われたものではありません。

「ナポレオン」を名乗る以上、ナポレオン3世は伯父と同じように、戦争で勝ち続けることによって人気を維持しなければなりませんでした。
そのため、ヨーロッパ周辺の戦争にちょくちょく手を出していたのです。

 

「帝位から引きずり降ろされてしまう……」

【クリミア戦争】でイギリスと共にオスマン帝国側へ。
※メインは帝政ロシアvsオスマン帝国

続く【イタリア統一戦争】ではイタリア側へ。
※イタリア諸侯vsオーストリア

ついでに美味しいところを頂戴しようとして、最終的に両方とも勝者側になりました。

特にオーストリア=ハプスブルク家に勝つということは、ヨーロッパの王者になるも同然。

戦争とはちょっと(?)違いますが、北アフリカやアジアへの植民地政策もその一環といえなくもないですね。
植民地が増えれば、自国の力とトップの有能さを誇示することができるわけですから。

ただし、戦争となれば勝っても負けても死傷者が出るものです。
メキシコでは大失敗もしていますしね。

伯父のナポレオン1世でさえ、これだけ「英雄」のイメージが強い一方で、ロシア遠征の失敗などにより自軍に多くの犠牲者を出したことで「食人鬼」と呼ばれたほどですから。

ナポレオン3世としては
「うまくやらなければ、帝位から引きずり降ろされてしまう」
ぐらいのことは当然考えていたでしょう。

そこで民衆のガス抜きのためにやったのが、自由主義政策のアレコレというわけです。
ゲスい……けど政治的にはうまいかもしれん……。

ただ、その次におっぱじめた【普仏戦争(1870-1871年)】では、そうそうウマくはいきませんでした。

 

プロイセンからはビスマルク 戦う相手が悪かった

なんせ相手はプロイセンです。
新興国とはいえ、同国指導者のNo.2ポジションにいるのが世界史上屈指の外交家・ビスマルクです。

この時期に彼の仕掛けた戦争が、全てドイツ統一のための道筋であったということは、以下の記事でも触れましたので、まずは普仏戦争部分の記述だけ抜き出してみましょう。

鉄血宰相ビスマルク
ビスマルクはなぜ「鉄血宰相」と呼ばれたか?ドイツ最強の文官 その生涯

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ビスマルクは、フランスという【ドイツ全体にとって積年の敵】を倒すことが、国内をまとめ上げる最終ステージだと考えていました。
共通の敵がいればまとまるのは古今東西お約束ですものね。

そのために「スペイン王位が空いてるんで、ウチの王様の親戚に行ってもらいますねw」なんて見え透いた挑発をしたのです。

もしこれをそのまま通してしまったら、フランスはドイツとスペインから挟み撃ちに遭ってしまいますよね。
そのときになってから対策をしようとしても遅すぎる。

それに、ヨーロッパの戦争は「じゃあウチは得しそうなほうにつくね!」みたいな感じでどんどん違う国が乗っかってきますから、挟み撃ちになったが最後。
「大陸中からフルボッコ」になるのは目に見えていました。

ナポレオン3世からすれば、伯父さんがそういう目に遭っているわけですから、なんとしても避けたいわけです。
伯父にできなかったことが自分にできるわけがない……とも思っていたことでしょう。

ですから、どんなにあからさまでバレバレだったとしても、フランスは「プロイセン王家の親戚がスペイン王になること」を防がなくてはなりませんでした。

こうして起きたのが普仏戦争です。

ビスマルク/wikipediaより引用

 

わずか1ヵ月半で降伏 首都も占領されてしまう

植民地アルジェリアから兵を動員しても35万というフランス軍に対し、プロイセン軍は再編成されて50万。
しかもプロイセン軍は、度重なる近所での対外戦争に勝って士気は最高潮です。

上記の通り、フランス軍も一応勝ち馬に乗ってはいましたが、自国のための戦争ではありませんでしたから、そういった点でも差がついたのです。

これが如実に現れているのが、この戦争の行われた期間です。

一般的に戦争って、数年間かけて行われるものと思いますよね。
しかし、普仏戦争は開戦からわずか1ヵ月半で皇帝が降伏して敵国の捕虜になり、その後、首都が占領され一年弱で終わってしまっているのです。

ナポレオン3世が1870年9月2日に降伏し、翌日そのニュースが届いたとき、フランスの民衆は怒るわ、嘆くわ、呆れるわの大混乱。
民衆をなだめるためにアレコレやっていた自由主義的な政策(で抱かせた好感度)も、「皇帝が捕虜になったぞー!!」の一報で木っ端微塵に吹き飛びました。

さらに「たった1ヵ月半で負ける皇帝なんかいらない!」とまでエスカレートし、降伏のニュースが入った翌日9月4日に、ナポレオン3世は廃位されてしまったのです。

一応フォローを入れておきますと、ナポレオン3世は戦況が不利になったとき「私に兵を殺す権利はない」として、自ら降伏を選んでいます。
まぁ、それなら戦争する権利もどうなんだ?って話かもしれませんが。

パリで内政を任されていた皇后ウジェニーは「アンタが先頭に立って突撃すれば勝てるわよ! 何チンタラしてんの!? そうすれば名誉の戦死ってことになって、息子が跡を継げるじゃない!」(超訳)という意見でした。カーチャンこわい;;

いずれにせよ、この冴えない終わり方はフランスに強く影響を与えました。

同国ではその後
「もう君主なんていらない! 自分たちで政治をやっていくんだ!」
という考えが主流になり、パリ・コミューンという大騒動(※マイルドな表現)を経て、【第三共和政~(中略)~第五共和制(現在)】に至るわけです。

苦労して就いた皇帝の座は呆気なく……。
英雄の後継者というのも辛いものがありますね。

長月 七紀・記

【参考】
ナポレオン3世/Wikipedia

 



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