1871年(日本では明治三年)3月21日、オットー・フォン・ビスマルクがドイツ帝国宰相に就任しました。
日本史・世界史問わず「暗記第一!」の歴史教育の中でも、この人の名前はなぜだか今も忘れていない――という方は結構多いのではないでしょうか。
なんせ【鉄血宰相】というゴッツイ二つ名がついてますしね。
実際、彼の功績も、その言葉通り骨太なものが多く、後にドイツの戦艦には「ビスマルク」と名付けられたものが複数あったりします。
では何をやった方なのか?
一言でいうと「バラバラで絶対にまとまりそうになかったドイツ一帯を一つにした」というところでしょう。
おまけに戦争がめっちゃ得意。
国内がまとまる前から対外戦争をおっ始め、勝利してしまうほどの指導力を発揮しております。
となると、さぞかし本人も堅物なんだろうなぁ……と思いきや人間臭い話も残っていたりして。
本日は、その辺も含めて鉄血宰相・ビスマルクを振り返ってみます。
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ガタイも鉄血!
ビスマルクは190cm・120kgもの巨漢でした。
そして、実は軍人ではなく【文官】です。
元々がユンカー(地方貴族)の出身で比較的裕福だったのと、ドイツ全体が民族的に体格が良くなりやすいというのが相乗されてこのガタイになったのかもしれません。
これは周囲からもツッコミどころに移ったようで、国王・ヴィルヘルム1世から「君はなぜその恵まれた体を持っていながら、軍人にならないのかね」と聞かれたことがあったそうです。
これに対しビスマルクは「私は軍で昇進する見込みがありませんので」と答えたとか。
本当にそう思っていたのか、文官の方が出世しやすいと考えたのか、戦争はイヤだったのか、真意はわかりませんが全部だったりして。
体格のとおり、大食漢としても有名だったそうです。
「一度の食事で卵を15個食べた」
「(同様に)牡蠣を175個食べた」
などなど、ギネスに乗りそうな食欲+酒豪という、体に悪い食生活をしていたとか。
その割に83歳まで長生きしてますので、エネルギーやらコレステロールやらはキッチリ代謝できていたんでしょうね。
ますます軍人にならなかったのが不思議でなりません。戦争だ……と言われた敵軍に同情します。
この他にも逸話に事欠かない人ですが、そろそろ宰相としての話をしましょう。
統一問題は【鉄と血】によってのみ解決される!
ビスマルクは青年時代から、徹頭徹尾、合理主義かつ現実主義でした。
民族的にはドイツ人だけど、地理的には北ポーランドだったプロイセン出身だったので、他の地方を極めて客観的に見ていたものと思われます。
「神聖ローマ帝国の轍は踏むまい」という思いがあったことでしょう。
有名な鉄血演説は、ものすごく端折って言うとこうなります。
「ドイツがまとまるためには、我がプロイセンが先頭に立ち武力を持って統一を図るべきだ!」
末尾が「ドイツ統一問題は、演説や多数決などの話し合いではなく、鉄と血によってのみ解決される」だったことから”鉄血宰相”及び”鉄血演説”の名がつきました。
これだけ聞くと「言うこと聞かないヤツは殴って従わせようぜ!」とも思われますが、それではあのややこしいにも程がある【三十年戦争】の二の舞です。
フランス革命の余波が(フランス以外は)ようやく収まり始めたこの時期のヨーロッパでそんなことをしていれば、統一するどころか四方八方の隣国に分割されてしまうでしょう。
ですから、ビスマルクの本意は別のところにありました。
どこに武力を向けたかというと、他国との領土問題です。
しかも、ビスマルクはケンカの売り方と終わらせ方が非常に上手でした。
この類の戦争を違う相手と計3回やっているのですが、3回とも全てに勝利を収め、狙った通りの成果を上げています。
文字で言うと簡単ですけども、これは並大抵の手腕でできることではありません。正義より実利を掲げたほうが戦争はうまく行くんでしょうね。
ドイツとは切っても切れないオーストリア
この時期(というか今も)のドイツ諸国とプロイセンにとって切っても切れないのがオーストリアとの関係です。
かつては神聖ローマ皇帝を出していた国ですし、民族的にも近く、プロイセンよりずっと歴史が長いので、オーストリア側からすれば
「ウチが中心になって新しいドイツを作るべきなのに、あの新参者何してくれちゃってんの?」
ってな状態でした。
18世紀には2回ドンパチもやってましたので、元々友好関係とは言いがたかったのもありますが。
ビスマルクは戦争ついでに対オーストリア関係も片付けてしまおうと画策しています。
それでは、3回の戦争をざっくり見ていきましょう。
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