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【鉄血宰相ビスマルク】
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デンマーク戦争(1864年)
デンマークとの国境でややこしいことになっていた、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国というところを分捕るためにケンカを売りました。
かつて「フリードリヒ2世(18世紀のプロイセン王)が好きなので戦争やめます!!」とほざいて自滅したロシア皇帝・ピョートル3世の出身地ですね。
元々プロイセンのほうが戦争には強いのであっさり勝利しています。
普墺戦争(1866年 ※イタリア独立戦争 同時進行)
デンマーク戦争後のアレコレを巡ってオーストリアと対立が深まり、これをきっかけに開戦。
イタリア統一運動でプロイセン・イタリアが同盟を結んだのもこのときです。
2ヶ月もかからずに終わってしまったため、「7週間戦争」とも呼ばれます。
もちろん勝ったのはプロイセンでした。
この二国で戦争すると必ずプロイセンが勝ってたというのが何ともいえません。ほぼ同じ民族なのに何でこんなに連勝と連敗がはっきり分かれるんですかねえ。
中国みたいに別の民族ならわかるんですけども(漢民族vsモンゴル民族とかvs女真族とか)。
これによって、上記のシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国はもちろん、ドイツの中でもオーストリアについた国(ハノーファーとかヘッセンとか)がプロイセンに併合されることになりました。
後者はそれまで独立した国で、独自の王様もいたのですが、この併合によって廃止されています。
普仏戦争(1870年)
最後はナポレオン率いるフランス帝国との戦争です。
といっても「余の辞書に不可能の文字はない」でお馴染みとなっているほうではなくて、甥っ子のナポレオン3世ですね。
皇帝になるまで苦節44年のナポレオン3世 ビスマルクに追い込まれて廃位へ
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フランスは長らくヨーロッパの大国でしたし、ドイツにとってはフランク王国時代(この時点から約1000年前)から領地を取り合っていた相手ですから、ビスマルクがカタをつけたかったのは当然といえましょう。
しかし、潜在的な遺恨はあってもこの時点でフランスとの間に直接いざこざはなかったので、ビスマルクはその火種から作ることにしました。
これだけ立て続けに戦争やっててよくそんなに頭が回るものです。
ビスマルクは当時内紛で空位になってしまったスペイン王の座に目をつけ、あからさまに挑発をしました。
「ウチの王族様がスペインに行って、王様になっていただけばいいですよね!皆さんそう思いますよね!ね!?(チラッチラッ」
日本人からすると「何でよその王様のことを勝手に決めようとするの?」と不思議に思えますが、これはヨーロッパの王族同士があっちこっちで血が繋がっていることによる日常茶飯事ですので、あまり深い意味はありません。
今でもイギリスの王位継承権をデンマークとかスウェーデンの王様が持ってたりします。順位は百位以下なのでまずありえないですけどね。
しかしスペインとプロイセンの王様が同じ家の人になってしまうと、フランスはサンドイッチされてしまうことになるので笑うに笑えません。
実は同じことを一回ハプスブルク家にやられてますので、「二度とあんな目にあってたまるか!」というわけです。
そのため、ナポレオン3世は見え透いた挑発に乗らざるを得ませんでした。いくら1世より見劣りするからって全くわかってなかったってことはないでしょう……多分。
結果は例によってプロイセンの勝利……どころか、ナポレオン3世(※皇帝)が捕虜にされたうえ、パリの陥落というフランスにとっては悪夢以外の何物でもない結末になりました。あーあ。
もちろんビスマルクがそれだけで勘弁するわけありません。
フランク王国分割以来の係争地だったエルザス=ロートリンゲン(現フランス領・アルザスとロレーヌ)+50億フランという多額の賠償金(ケタが大きすぎて換算する気にもならない)もガッツリ奪い取りました。
こうしてビスマルクは着々とドイツ統一への道筋をつけていったのです。
いよいよ盛り上がってきたところですが、この先の統一と首相就任の話は【ヴィルへルム1世】と共にマトメたいと思います。以下の記事です、よろしくお願いします。
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長月 七紀・記
【参考】
『とびきり陽気なヨーロッパ史 (ちくま文庫)』(→amazon)