戦国大名にとって最も困難だったシゴトは何だと思われます?
政治
軍事
内政
外交
と、こう並べると『信長の野望』みたいで、どれか一つが正解のようにも見えますが、実は大事なものが抜けています。
家督相続です。
一歩間違えれば国が崩壊しかねない――相続がとてつもなく厄介な引き継ぎ業務であることは、トラブルに見舞われてきた大名家を挙げれば一目瞭然でしょう。
武田信玄
→父を追放、長男は自害
上杉謙信
→養子二人が御館の乱
徳川家康
→松平信康の自害
伊達政宗
→弟との確執
このように当時を代表する一族たちは軒並み何らかの傷を負ってきました。信長に近しいところでは斎藤道三と斎藤義龍の衝突などもありますね。
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では、肝心の織田家ではどうだったのか?
それは天正三年(1575年)冬のことでした。
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秋田城介に任官されたのはなぜ?
『信長公記』を記した太田牛一も相続の難しさを意識していたのでしょうか。
信長→信忠の家督について、順を追うように記されています。
①岩村城の戦いで信忠が大活躍
↓
②秋田城介に任命される
↓
③家督相続
【岩村城の戦い】で同城を落とし、武田方の秋山虎繁を討ち取った話は前回報じさせていただきました。
今回は【秋田城介】への任官から見て参りましょう。
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岩村城攻略の功績が認められた織田信忠は、朝廷から「秋田城介」の官職に任命されました。
おそらく天正三年11月のことで、細かな日取りは不明です。
秋田城介とは、その名の通り東北地方の秋田城を預かる国司の官職名。
元々は出羽国司の仕事の一つでしたが、奈良時代に「蝦夷などへの備えのため、秋田城に別の責任者を置くべきだ」という考えが生まれて分けられた、という経緯があります。
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出羽国司の赴任先は諸々の事情で出羽郡にあったため、秋田城介が新しい役職として作られたのでした。
また、当時朝鮮半島にあった渤海国(ぼっかいこく)の使者がやってきたのは秋田城だともいわれており、古代におけるこのエリアは外交・軍事の最前線ともいえる重要な場所でした。
織田家の跡取りは信忠~朝廷としても太鼓判
また、平安中期には秋田城介から【鎮守府将軍】という、さらに高い官職に上る出世コースもありました。
鎮守府というのは、古代において陸奥に置かれていた軍事拠点のことです。明治時代からは海軍の拠点の名称となりましたが、それとは異なります。
鎌倉時代以降は幕府のトップである【征夷大将軍】が武家の最高の官職となったため、鎮守府将軍が用いられることは少なくなりましたが、名誉職として与えられた例はいくつかあります。
当時、天正三年時点では、まだ足利義昭が征夷大将軍の座にあったので、他の人が同じ官職につくことはできなかった……という理由もあります。
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その代わり、将来性を半ば約束するという意味で、朝廷は信忠に秋田城介を任じたのでしょう。
秋田城介に関する歴史的経緯からすると、朝廷から見た信忠は
「都から離れた重要な場所を任せてもいいと思える人物であり、武士として申し分ない者」
だったということになります。
若干18歳の若者、しかもついこの前まで無位無官同然だった信長の息子に対する評価としては、これ以上ないといっても過言ではありません。
これまで朝廷や世間からの評判を勝ち取るためにしてきたことを考えると、信長としても息子への高評価はありがたく、喜ばしいことだったのではないでしょうか。
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家督と岐阜城、そして尾張・美濃の二国を譲る
もしかしたら信長は、織田家が東北地方を攻略した後、まずは東北地方を信忠に任せる予定だったのかもしれません。
中国・四国を攻略したら、関東や東北に目を向けていたと思われるフシがあるからです。
以前にも、朝廷の許可を得て明智光秀や丹羽長秀に九州名族の名字を名乗らせているので、それと似たようなものだった……そんな可能性も考えられそうですね。
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当時の信忠にはまだ子供がいません。
将来的に生まれるであろう信忠の長男に家督を譲り、次男や三男の家系を東北の責任者として引き継がせていく予定だったというのもありえます。
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ちょうど徳川家が御三家を創設して尾張・紀州・水戸といった要所を代々任せたのと同じようなイメージ。まぁ、あくまで想像の範疇ですが。
信長は、天正三年(1575年)の時点で42歳。
当時の平均寿命からすると、自分の死後のことを本格的に考えなくてはいけない頃合いです。
信忠への高評価は、家督相続への良いキッカケになったのでしょう。
天正三年(1575年)11月28日、信長は決断。ついに……。
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