今回は、永禄の変が起きてから、足利家唯一の生き残りとなった足利義昭に注目。
前回の第49話と同じように織田信長の出番はありません。
しかし、今後の流れを理解する上では大切な場面。
果たして信長と義昭は、どのような経緯で関わり合うことになったのか。
順を追って振り返りましょう。
興福寺の有力者だけに
永禄八年(1565年)5月19日に永禄の変が起きた時、足利義昭は奈良の興福寺の塔頭・一乗院の門跡(格の高い寺院の住職)でした。
そのため、永禄の変で義昭の兄・足利義輝を討ち取った三好方もこう言ってます。
「そちらの御門跡でいらっしゃる限りは、こちらから何かをするということはありません」
義昭もそれを信用して一乗院に留まっていた……と『信長公記』には記されておりますが、三好方によって軟禁されていたため、とても安心できる状況ではありませんでした。
おそらく三好方は、義昭個人よりも、興福寺そのものの権力や僧兵の力を恐れたのではないでしょうか。
なにせ興福寺といえば、戦国時代の時点でも「はるか昔から政治力と武力を持っている」とみなされていた大寺院です。

興福寺五重塔
その歴史や概要を簡単にまとめておきましょう。
【興福寺権力の変遷】
・創建は天智天皇八年(669年)=戦国時代ですら900年近い歴史を持つ
・代々藤原北家(道長の子孫)との繋がりが強く、奈良の荘園のほぼ全てを持っていた
※大河ドラマ『光る君へ』では藤原道長を脅すような場面すらありました
・源平時代に平重衡に焼き討ちされたが、鎌倉時代に再建
・興福寺の力がありすぎて、鎌倉幕府も室町幕府も守護を置けなかった
・最盛期には100軒以上の塔頭があった
・僧兵や地元の武士を多数抱えており、自力で防衛できた(幕府に頼る必要がなかった)
文字通りの大勢力ですね。
幽斎や惟政の手引きでこっそり脱出
信長関連ではどうしても延暦寺や本願寺が目立ちます。
が、興福寺もそれらに勝るとも劣らないどころか、もはや国レベルの組織でした。
特に延暦寺とは「南都北嶺」と並び称されたこともあります。
南都が奈良県の興福寺で、北嶺が滋賀県の延暦寺ですね。
しかし、永禄八年(1565年)7月28日、義昭は細川幽斎(細川藤孝)や和田惟政などの幕臣たちの手引きでこっそり寺を抜け出します。

細川藤孝(細川幽斎)/wikipediaより引用
さらに惟政の地元である甲賀と伊賀を経て、近江の六角氏を頼りました。
六角氏は佐々木源氏の流れをくみ、さらに近江守護の家柄でもあり、京都周辺の実力者の一人だったからです。
また、以前、義輝が六角氏に身を寄せていたこともあり、何らかの期待をしていたものと思われます。
当主である六角義賢も、はじめは義昭を迎えて矢島に御所まで用意しました。
しかし次第に三好氏に圧迫され、冷たい態度を取り始めます。
朝倉では頼りの義景に覇気がなく……
義昭一行は仕方なく方針を変えました。
「できるだけ近所の実力者を頼ろう」と、まずは義昭の妹が嫁いでいた若狭武田氏に白羽の矢を立てます。
ところがここも、お家騒動や重臣の不穏な動きがあり、上洛どころではありません。
今度は、永禄九年(1566年)9月、越前の朝倉氏に庇護を求めました。
この頃の朝倉氏当主は朝倉義景。
信長と敵対した大名の一人として有名ですが、義昭がやってくる前後にお気に入りの側室と幼い息子を亡くしたばかりで、政治にも戦にも関心を失いつつあった頃合いです。

朝倉義景/wikipediaより引用
また、当時の三好氏の力に対して、朝倉氏だけで対抗することは難しい状況でした。
越前一向宗徒との対立もありますし、旧暦9月=新暦10月ですから、越前ではそろそろ雪への備えをしなくてはなりません。
その状況で、兵を総動員しての上洛はほぼ不可能だったといえます。
義景自体は義昭の元服式で烏帽子役を務めるなど、粗略な扱いはしていなかったようですが、それと上洛戦はまた別の話です。
最終的には光秀の取次も得て
こうした理由から、義景も義昭の上洛には積極的ではなく、二年の時が流れます。
しびれを切らした義昭一行。
こうなったら……と永禄十一年(1568年)夏、新たな庇護者の下へ向かいます。
他ならぬ織田信長でした。
このとき、当時は朝倉氏に仕えていた明智光秀が、細川幽斎(藤孝)とも連携して、信長と義昭の連絡役を務めたといわれています。
永禄の変が起きたからこそ義昭が流浪し、六角氏から朝倉氏に行ったために光秀と出会い、さらには信長と繋がったわけです。
その後のことを考えると、なんというめぐり合わせだろう……と思ってしまいますね。
少しネタバレになってしまいますが、明智光秀サイドから描いた記事が以下にございますので、よろしければご一読ください。
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参考文献
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』(全15巻17冊, 吉川弘文館, 1979年3月1日〜1997年4月1日, ISBN-13: 978-4642091244)
書誌・デジタル版案内: JapanKnowledge Lib(吉川弘文館『国史大辞典』コンテンツ案内) - 太田牛一(著)・中川太古(訳)『現代語訳 信長公記(新人物文庫 お-11-1)』(KADOKAWA, 2013年10月9日, ISBN-13: 978-4046000019)
出版社: KADOKAWA公式サイト(書誌情報) |
Amazon: 文庫版商品ページ - 日本史史料研究会編『信長研究の最前線――ここまでわかった「革新者」の実像(歴史新書y 049)』(洋泉社, 2014年10月, ISBN-13: 978-4800305084)
書誌: 版元ドットコム(洋泉社・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長合戦全録――桶狭間から本能寺まで(中公新書 1625)』(中央公論新社, 2002年1月25日, ISBN-13: 978-4121016256)
出版社: 中央公論新社公式サイト(中公新書・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『信長と消えた家臣たち――失脚・粛清・謀反(中公新書 1907)』(中央公論新社, 2007年7月25日, ISBN-13: 978-4121019073)
出版社: 中央公論新社・中公eブックス(作品紹介) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長家臣人名辞典(第2版)』(吉川弘文館, 2010年11月, ISBN-13: 978-4642014571)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ - 峰岸純夫・片桐昭彦(編)『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館, 2005年3月1日, ISBN-13: 978-4642013437)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ




