今回は、時系列がかなり遡ります。
具体的には1540年代における美濃の話です。
この節は次の節の前座みたいなもので、次回が本番というところでしょうか。
織田信長が出て来ない上に少しばかりややこしいですが、大事なところですのでどうぞお付き合いください。
また、信長公記の記述と、現代の研究にズレが見られる部分もあり、その辺の整合性をとりながらお話を進めさせていただきます。
斎藤道三が主軸になってきますので、よろしければ以下の記事も併せてご覧ください。
斎藤道三は如何にして成り上がったか? マムシと呼ばれた戦国大名63年の生涯
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土岐氏の家督争いに乗じて
道三は、美濃守護・土岐氏の家老である長井長広に気に入られて出世の糸口を掴みました。
長広の紹介で当時の土岐氏当主の息子・土岐政頼(盛頼・頼武とも)&土岐頼芸に引き合わされたのです。
政頼が道三を疎んじたのに対し、頼芸は歓迎しました。
当時、土岐氏はこの兄弟の間で家督争いになる直前だったので、自然と真逆の評価になったのでしょう。
争いの結果、家督は頼芸のものとなりました。
この時点では、元から偉かった長広が実権を握っていたので、出世を望む道三としてはその存在が超絶邪魔。
そこで、彼を始末して長井家を乗っ取ります。アッサリ実行できてしまうところに「蝮(マムシ)」と呼ばれる所以があるのですね。
稲葉山城に本拠を移し、さらに守護代の斎藤利隆(あるいは良利)が亡くなったため、道三がその名跡を継いで斎藤氏を名乗るようになります。
また、頼芸の息子・次郎を娘婿に貰い受け、着々と勢力固めを進めました。
逃げ出した八郎を捕まえ、そして……
マムシの真価が発揮されるのはここから。
道三はしばらくして次郎を毒殺し、その弟・八郎に娘を押し付けます。
「兄が死んだので後家と弟が結婚」という話自体は珍しくないものの、さすがに毒殺はイレギュラーです。
それだけではありません。
道三は、弟・八郎を稲葉山の下に住まわせ外出を制限し、事実上軟禁してしまうのです。
この扱いに耐えかねた八郎は、尾張の織田信秀を頼ろうと、雨の夜に逃亡。
いち早く気づいた道三が、これに追いつき切腹させました。
最初から監視を強めていたことは想像に難くありません。
信長とのヤリトリだけを見ていると、いかにも優しげな老将というイメージですが、実際はさほどに怖い御方なんですね。
織田家との婚姻も思惑があった
この間、土岐頼芸はずっと大桑(岐阜県山県市)の城に住んでおりました。
が、道三はこの城の家老たちに賄賂を送って寝返らせ、頼芸も追い出しています。
頼芸はその後、信秀を頼って尾張に身を寄せました。
※この時点で追放されたのは息子の頼次だけで、頼芸は鷺山城にいたという説もあります
美濃を追い出された頼芸も、さすがに黙ってはおりません。
越前の朝倉氏に庇護されていた甥・頼純と協力して、一度は美濃守護の座に返り咲きます。
しかし、それもバックアップがあってこそ。
朝倉氏も織田氏も、それぞれ道三と和平を結んだため、彼らをアテにすることができなくなってしまいます。
実は、信長と濃姫が結婚したのはこの頃の話なんですね。
この有名な婚姻は、織田家サイドから眺めていると、ほとんど信長にしかメリットがなかったようにも思えますが、斎藤家にとっても十分に利益があったのですね。
主(しゅう)を斬り 婿を殺すは 身のおわり
それにしても……天罰が下ってもおかしくない所業の数々。
信長公記では、道三のことを「牛裂きや釜茹でなどの残酷な刑を好んだ」とも記しています。
巷(ちまた)でも、こんな落首が詠まれたそうです。
「主(しゅう)を斬り 婿を殺すは 身のおわり 昔は長田(おさだ) 今は山城」
上の句は「美濃・尾張」と「身の終わり」にかけたもの。
下の句の長田というのは、平安末期の武士・長田忠致(おさだ ただむね)のことです。源義朝の家臣だったのですが、平治の乱で破れた主人を家に迎えた後、平家からの恩賞に目がくらんで義朝を風呂場で殺した……といわれています。
場所は野間大坊(真言宗のお寺)で、現在の愛知県知多郡にあります。
忠致は義朝に付き従っていた鎌田政清という人の舅であり、政清もこのとき忠致の息子・景致(かげむね)に殺されておりました。
それから約20年後。
忠致は成長した源頼朝の挙兵に応じて参陣します。
そして、平家が片付いた後、頼朝の命によって、割とグロい方法で処刑されました(それ以前に戦死していた説もあります)。
つまり、落首が意図することはこうなります。
「遠い昔に、忠致が主人である義朝と婿の政清を殺し、最終的に悲惨な死に方をしたのと同じように、道三にもいずれ天罰が下るだろう」
ナルホド、言い得て妙でありますよね。
しかし、疑問も残ります。
道三が本当に残酷な刑を無意味にやるような人物であれば、こんな落首が詠まれた時点で作者を血眼になって探し、牛裂き以上の刑に処しても不思議ではありません。
ゆえに、これは後世の人か、あるいは道三の謀略ぶりから想像を膨らませた美濃近隣地域の人が詠んだのでは……という気がするのです。
先の話になりますが、道三は、将来的に【長良川の戦い】で息子の斎藤義龍に討たれます。
確かに頼芸より早くに死んでおり、こうした状況を踏まえて詠まれた可能性もあるのかなぁ、と思う次第です。
※長良川の戦いは次回詳しく取り上げます
信長の息子・信孝も追い込まれた因縁の場所
追い出された土岐頼芸は、その後、
・妹の嫁ぎ先&妻の実家である近江(滋賀県)の六角氏
・実弟のいた常陸(茨城県)
・縁戚にあたる上総(千葉県)の土岐為頼
などを転々とし、最終的に甲斐の武田氏のもとで庇護されました。
この間に頼芸は病気で失明していたともいいます。
しかし、信長による甲州征伐(武田勝頼を討った一連の戦い)の際、土岐氏の旧臣だった稲葉一鉄に保護され、美濃に帰ることができました。
人の運命はわからないものです。
★
最後に、興味深い蛇足を……。
落首の元ネタになった源義朝の殺害について、実はこの野間大坊では、後に織田家にゆかりの深い人物が自害に追い込まれています。
織田信孝です。
信長の三男とされる人物で、本能寺の変後は豊臣秀吉との権力争いに破れ、自刃させられました。
このときかなり際どい切腹をしており、最後にこんな辞世を残しております。
「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
【意訳】ここ野間は、昔、源義朝公の一件があったように、主筋を討った者も後に追い込まれることになる。そのときを待ってろよ、羽柴筑前(豊臣秀吉のこと)よ
信孝が詠んだのは、斎藤道三の落首ではなく義朝の悲劇を踏まえてのことでしょう。
しかし何かと因縁深い土地柄であったのは間違いありません。
歴史の流れを感じる一連の出来事でもありますね。
なお土岐頼芸の生涯については以下の記事も併せてご覧いただければ幸いです。
長月 七紀・記
※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
大河ドラマ『麒麟がくる』に関連する武将たちの記事は、以下のリンク先から検索できますので、よろしければご覧ください。
麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
続きを見る
【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)