今回の『信長公記』解説は、天正七年(1579年)8月の出来事。
しばらく記述がなかった【有岡城の戦い(伊丹城の戦い)】に関するお話です。
摂津・有岡城の荒木村重が突如として織田家を裏切り、蜂起したことで知られますが、村重が謀反を起こしたのが天正六年秋のことですから、それから約1年後の話になりますね。
その間は『信長公記』以外の史料でも細かな記述に乏しく、経過はよくわかっていません。
包囲は続いていたが大きな戦闘はなかった……ということでしょうか。
※本稿は織田信長の足跡を記した『信長公記』を考察しており、今回はその185話目(巻十二・第十節)となります。
前話は以下の通り。
東北の戦国武将らが次々に信長へ献上!あの悪屋方の弟も~信長公記184話
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信忠と名人久太郎が摂津へ
信長からすれば、主に中国攻略を担当していた羽柴秀吉(豊臣秀吉)を、一刻も早く毛利攻略へ集中させたいところ。」
そこで天正七年(1579年)8月20日、長男の織田信忠に対し、再び摂津へ出陣するよう命じました。
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信忠はいったん安土に立ち寄り、名人久太郎こと堀秀政を連れて22日に再度出発。
この日のうちに小屋野(伊丹市)へ着陣します。
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再び信忠がやってきたことを知ったであろう、有岡城の荒木村重はどうしたか?
というと、同年9月2日になり、わずか5~6人の供を連れて城を脱出してしまいます。
そして長男・村次のいる尼崎城に入りました。
妻子を捨てた村重
なぜそんなことをしたのか……。
という前に、そもそも”なぜ村重は謀反を起こしたのか?”というところが今日でも不明なままですから、読み手としてはこの脱出をどう受け止めたものか、困ってしまいますね。
一応、
◆村重は密かに毛利氏に通じて謀反を起こした。
◆しかし、毛利市の支援は村重の期待よりも遥かに少なかった。
◆このときも毛利氏の武将・桂元将(かつら もとまさ)が尼崎に来ていたため、直接援軍などの交渉をするために伊丹城を脱出した
という見方もありますが、そうだったとしても村重の意思で妻子を見捨てたのは事実です。
どうしても信長に降伏したくないのなら、自分から「城を明け渡す代わりに妻子の命を助けてほしい」といった交渉を持ちかけることはできたでしょう。まぁ、男児の命は助からなかったでしょうが……。
また後の節で触れますが、この後、織田方からこんな条件が出されます。
「尼崎城と花隈城を引き渡せば、荒木方の妻子を助命する」
しかし、それを跳ね付けたのも、他ならぬ村重。
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さすがに酷すぎるだろ……とツッコミたくなりますが、だからこそ現代にまでその名(というか悪名?)は残ったんですね。
ともかく村重は城から逃げてしまったのでした。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
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