今回の『信長公記』解説は、天正七年(1579年)9月の出来事。
播磨方面の戦況に関するお話です。
その前話は有岡城に籠もっていた荒木村重の話でしたので、今回はさらに西方面で毛利攻略を進めていた羽柴秀吉の報告になります。
内容は、謀将として現代でもよく知られる宇喜多直家についてです。
※本稿は織田信長の足跡を記した『信長公記』を考察しており、今回はその186話目(巻十二・第十一節)となります。
前話は以下の通り。
村重が有岡城から脱出!妻子家臣を残してそのまま逃げた 信長公記185話
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宇喜多との和睦を勝手に決めた秀吉
それは天正七年(1579年)9月4日のことでした。
中国地方の毛利攻略を担当していた羽柴秀吉が安土に戻り、織田信長へ次のように報告しました。
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「備前の宇喜多直家が降参してきたので、受け入れました。その件に関する朱印状を出していただけませんか」
この申し出を読まれた皆さま、ちょっと違和感ありませんか?
そんな大事なことを勝手に決めてよいんか、秀吉ぃ……。
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と不安に思ったら、やはり織田信長は激怒でした。
「事前にワシの意見を聞かないとは何事か! けしからん!」
敵勢力との交渉を勝手にまとめるなど言語道断だとして、秀吉を追い返します。
宇喜多直家といえば、暗殺を得意とする大名です。
油断も隙もなく、たとえ「降参します」と言ってきても、そのまま信じていい相手ともいえません。
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そのあたりも加味しての叱責だったのでしょう。
秀吉としては大物を引き入れた功績を褒められると思っていたでしょうから、追い返されたとなると非常にバツが悪い話です。
なんとかして手柄を上げ、少しでも失態を穴埋めしたいところ。
そのチャンスは早くもやってきました。
三木城への兵糧運搬を阻止せよ
それから約1週間後、9月10日のことです。
播磨方面の敵である「御番城(ごちゃく)・曽禰城(そね)・衣笠城(きぬがさ)」の三城が、秀吉が包囲中の三木城へ兵糧を運び込もうとしました。
三木城にこもっていたのは別所長治ですね。
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彼ら別所軍も、命懸けで兵糧を運んでくれようとする彼らを手助けしようとしたのでしょう。
織田軍へ向かって出撃すると、谷衛好(たにもりよし)の陣地を攻撃。
そのまま衛好が討死という事態に陥ります。
動きを察知した秀吉も、すかさず応戦し
「別所氏の武将や、安芸・紀伊の者と思われる数十人を討ち取った」
とあります。
勝敗についてはハッキリと記されていませんが、織田軍が優勢だったのでしょう。
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