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【秀吉 信長に叱られ】
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戦功を報告する
三木城の合戦について『信長公記』には「安芸・紀伊の人間が混じっていた」と記されています。
おそらくこのときの敵方に、毛利・本願寺の援軍が参加していたのでしょう。
一方、ほぼ同時期の9月11日、信長が勢田まわりの陸路で上洛しました。
播磨方面での秀吉の戦については、途中の逢坂で報告を受けたとか。
逢坂は古来より山城と近江の国境地点でもありましたので、秀吉からの使者がここを通ろうとしていたところに、信長も来合わせたのでしょうか。
信長は『秀吉が先日の叱責を気にして、手柄を上げて埋め合わせようとしたのだろう』と考えたようです。
そして秀吉に対し
「三木城の決着がつくまで、油断なく努力せよ」
と、激励する書状を送りました。
失態をいつまでも引きずらず、褒めるところがあれば即座に書状や口頭で述べる――このへんが信長の魅力かもしれませんね。
関東は後北条氏から鷹の献上
信長が上洛している最中のことでした。
相模の大名・北条氏政の弟である北条氏照が、信長へ鷹を三羽献上してきたそうです。
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東北の大名よりも関東の大名のほうが後だった、という点は少々興味深いですね。
次は9月12日。
伊丹へ出陣した信忠の行動が書かれています。
伊丹に在陣中だった織田軍のうち半分を率いて、尼崎へ向かい、拠点とするための砦を2つ築きました。
ここも長期戦になると考えたのでしょう。
そして塩河長満・高山右近を一隊、中川清秀・福留秀勝・山岡景佐を一隊に編制し、彼らをそれぞれの砦に配置。
終わった後は、他の者を連れて小屋野まで戻っています。
村重は伊丹から尼崎へ逃げましたが、伊丹には荒木氏の家臣や妻子などが多く残っていたため、どちらも予断を許さない状況だったからだと思われます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)