絵・富永商太

信長公記

謀将宇喜多と勝手に和睦をした秀吉 信長に叱られ 信長公記186話

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秀吉 信長に叱られ
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戦功を報告する

三木城の合戦について『信長公記』には「安芸・紀伊の人間が混じっていた」と記されています。

おそらくこのときの敵方に、毛利・本願寺の援軍が参加していたのでしょう。

一方、ほぼ同時期の9月11日、信長が勢田まわりの陸路で上洛しました。

播磨方面での秀吉の戦については、途中の逢坂で報告を受けたとか。

逢坂は古来より山城と近江の国境地点でもありましたので、秀吉からの使者がここを通ろうとしていたところに、信長も来合わせたのでしょうか。

信長は『秀吉が先日の叱責を気にして、手柄を上げて埋め合わせようとしたのだろう』と考えたようです。

そして秀吉に対し

「三木城の決着がつくまで、油断なく努力せよ」

と、激励する書状を送りました。

失態をいつまでも引きずらず、褒めるところがあれば即座に書状や口頭で述べる――このへんが信長の魅力かもしれませんね。

 

関東は後北条氏から鷹の献上

信長が上洛している最中のことでした。

相模の大名・北条氏政の弟である北条氏照が、信長へ鷹を三羽献上してきたそうです。

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東北の大名よりも関東の大名のほうが後だった、という点は少々興味深いですね。

次は9月12日。

伊丹へ出陣した信忠の行動が書かれています。

伊丹に在陣中だった織田軍のうち半分を率いて、尼崎へ向かい、拠点とするための砦を2つ築きました。

ここも長期戦になると考えたのでしょう。

そして塩河長満・高山右近を一隊、中川清秀・福留秀勝・山岡景佐を一隊に編制し、彼らをそれぞれの砦に配置。

終わった後は、他の者を連れて小屋野まで戻っています。

村重は伊丹から尼崎へ逃げましたが、伊丹には荒木氏の家臣や妻子などが多く残っていたため、どちらも予断を許さない状況だったからだと思われます。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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