内憂外患どころか、ごく身近な家臣以外は敵ばかりだった――。
若き日の信長は、うっかり尾張の外に出ることもできない。
楔とは他でもありません。
弟・織田信勝(織田信行)の粛清です。
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織田信安と通じ、再び謀反を企てる
信長のすぐ下の弟・織田信勝(織田信行)。
これまでもたびたび名前が出てきましたし、世間一般的にも「信長と敵対していた」ことは割と知られていますね。
19話ではついに信長と武力衝突し、なんとか赦免してもらっていましたが、彼はまだ織田家当主の座を諦めていませんでした。
そのために岩倉の織田信安と通じ、信長への謀反を再び企みます。
具体的には、竜泉寺(現・名古屋市守山区)を城に改造し、信長の直轄地である篠木三郷の土地を狙っていました。
ここは当時、実り豊かな土地として知られていたため、目をつけたようです。
信安を味方につけた安心感もあってか、信勝は増長し始めます。
その最たるものが、男色相手の津々木蔵人を重用し、多くの侍をその配下にしたことでした。
「男色相手の扱いを間違えて主人が殺される」という話は珍しくありませんし、信長公記でもいくつか例が出ている=信勝の身近でも起きていたことなのですが、頭からすっぽ抜けていたようですね……。
悩んだ末、信長に訴えたのは勝家だった
この状況を嘆いていたのが、柴田勝家です。
勝家は、織田信秀(信長と信勝の父)が生きていた頃から、信勝につけられていた家老の一人。
当時は信長よりも信勝の評判のほうが圧倒的に良かったので、勝家も誇りに思っていたでしょう。
それがこの有様ですから、どれほど落胆したか……。
勝家は悩んだ末、信勝を見限り、信長に仕えることを選びました。
そして信長に、信勝の行状と謀反の計画を打ち明けたのです。
信長はこの報を受けて、ついに弟を始末する算段をつけます。
方法は極めてシンプル。
病気になったことにして、しばらく外出しませんでした。
見事だった信長の計略
信長は毎日、朝晩に馬術の稽古をしていました。
温暖な時期には水練も欠かさず行っていた人です。
つまり、日頃は超健康体。
それが「外に出ないほどの重体」だと聞けば、誰しも尋常ではない病気を抱えたな……と思うところです。
信勝にとっては、そのまま信長が死んでくれれば、計略や戦をせずに当主の座が転がり込んでくるわけで……その日が待ち遠しいところですよね。
勝家はこれが計略であることを知っていたでしょうけど、大多数の人間は気付かなかったでしょう。
なんせ信長と信勝の母である土田御前もさすがに心配したほどで。
彼女が信勝に
「日頃のことはさておき、血を分けた兄弟なのですから、一度お見舞いに行きなさい」
と勧めたのです。
信勝もまだ謀反の支度が整っていないため、怪しまれないよう素直に従います。
これまた、似たようなことがすぐお隣の美濃で起きていたんですが(23話)、人って意外と「自分も同じような方法で陥れられるかもしれない」とは思わないんですね。
手を下したのは河尻某と青貝某の二人
永禄元年(1558年)11月2日。
見舞いのため清州城へ出向いた信勝は、果たして呆気なく殺されてしまいました。
信長の家臣である河尻某と青貝某の二人に、北櫓天守次の間で殺されたといいます。
信長公記には、
「勝家が後々越前を任されたのは、このときの忠節に報いたものだ」
と書かれていますので、密告以外にも、勝家が何らかの働きをしていたかもしれませんね。
この件について「弟を殺すなんて、信長はやっぱりひどい!」と思ってしまう人もおられますが、これまで信勝がやらかしたことを考えると、当主である信長が始末するのも致し方ない面があります。
具体的に、信勝が何をしていたかまとめますと……。
①信長の家督相続後、当主を騙って勝手に書類を発行
②弟である秀孝誤殺事件の際、ろくに事情も調べず守山城下を焼く(18話)
③稲生の戦い(19話)
稲生の戦いで信長一騎打ち!~戦国初心者にも超わかる信長公記19話
続きを見る
二年も経たないうちに一度ならず二度までも
こんな感じで、あまりに前科が濃厚すぎました。
少し詳しく見てみますと……。
①については信長公記であまり触れられてないところで、信長と信勝は熱田などの利権を巡って、書類上でのバトルも繰り広げていました。
家督を継いだのは信長なので、否があるのは信勝のほうです。
しかも、③の弘治二年(1556年)の稲生の戦いのときには、もう裏切らないと正式に謝罪しておりました。
にもかかわらず、二年も経たないうちにまた謀反を企んだのですから、もうこれ以上は許せない状況です。
ここでキッチリ処罰しておかないと、前28話・山口親子のように、外敵を引き入れる者や内通者が続出する危険性も否めません。
信長がただ単に信勝のことを嫌っていたから始末した、というわけではないのです。
その証拠の一つが、信勝の遺児である
・織田信澄
・織田信糺(のぶただ)
・織田信兼
の3名を養育したことでしょう。
「人を活かす」「使えそうなら生かしておく」
信糺と信兼については記録が乏しいため不明点も多いです。
この三人は信長の嫡男・信忠とほぼ同世代と考えられ、おそらく当時3歳前後の幼児でした。
信長としても
「これぐらいの年齢からきちんと教育してやれば、やがて信忠に家督を譲った際、支えになる」
と考えていたのでしょう。
彼らがこの経緯を理解して
「信長様は自分たちを育ててくれた。この恩に報いるため、信忠様に精一杯仕えよう」
と考えれば御の字です。
逆に、
「信長め、命を助けて恩を着せたつもりか! 源頼朝のように、いつか兵を挙げて父の仇をとってやる!!」
と恨まれるリスクもあります。
正直、かなりの博打ですよね。
血縁というのは利害関係が厄介ですから、いったん反目に回れば可愛さ余って憎さ百倍となり、激しい憎悪のぶつかり合いになります。
ただ、基本的には味方のハズで、そうした判断からも
「人を活かす」
悪く言えば
「使えそうなら生かしておく」
という信長のポリシーが見てとれますね。
実際、この三兄弟は概ね真っ直ぐな道を歩み、特に信澄は信長に重んじられるようになりました。
それ故に悲劇が起こるのですが……その話はまた、だいぶ後で触れましょう。
長月 七紀・記
※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
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村木砦の戦い 信長が泣いた~戦国初心者にも超わかる信長公記14話
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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
大河ドラマ『麒麟がくる』に関連する武将たちの記事は、以下のリンク先から検索できますので、よろしければご覧ください。
麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)