絵・富永商太

織田家 信長公記

『信長の休暇』平穏だった天正七年前半は何してたん? 信長公記176話

今回から信長公記巻十二(1579年)に入ります。

実は今回だけで一年の1/3近く時系列が進むのですが、この同年前期は周囲の情勢にあまり変化がありません。

しかし、織田信長の素顔に迫るには丁度よい内容かもしれません。

『信長の休暇』とでも言いましょうか。

順を追って見ていきますね!

 

休暇を与えられた九鬼嘉隆

天正7年(1579年)1月1日、信長は安土で新年を迎えました。

多くの武将が各所で対陣中のため、出仕してくる者はなかったようです。

5日になって、石山本願寺対策を担当していた九鬼嘉隆(九鬼水軍の棟梁)が安土へ挨拶に来ました。

信長は「今は大坂の情勢も落ち着いているので、地元に帰って妻子の顔を見てくるがいい。なるべく早く戻ってくるように」と、休暇の許可を出しています。

嘉隆は喜んで伊勢へ帰ったとか。

いつ頃地元から戻ってきたのかは記載がありませんが、嘉隆は基本的に【本能寺の変】まで堺にいたようですので、このときもさほど間を置かずに堺へ戻ったことでしょう。

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8日にはお小姓衆・お馬廻り衆・お弓衆に命じ、馬淵(近江八幡市)から切石350個以上を運ばせています。

その褒美としてか、翌9日の鷹狩の獲物は彼らに与えられました。

ここから一ヶ月以上間が開いて、次の記述は2月18日です。

 

鷹狩三昧だった2月

信長が上洛し、二条御新造に入りました。

もちろん政務もこなしていたと思われますが、2月21日・2月28日・3月2日と、短期間に三回も鷹狩をしています。

場所は東山や賀茂の山ということで近場ですし、鷹狩には軍事訓練としての意味もありますから、ただ遊んでいたわけではありません。

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……が、これまでの信長の行動を考えると、短期間で頻繁に鷹狩をするのも少々珍しくも思えますね。

3月4日には、一族のうち

が上洛してきました。

これは示し合わせたものだったようで、翌5日には信長と一緒に伊丹へ出陣しています。

この日は山崎に陣宿。6日は天神馬場からの道中で鷹狩をしつつ、郡山に陣を取っています。

前年に伊丹城攻めの本陣としていた古池田(池田市)に戻ったのは、3月7日のことです。

越前衆の不破光治・前田利家佐々成政・原政茂・金森長近も参陣しました。

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3月13日には高槻城の城番・大津長治が病死したそうですが、大勢に影響はなかったようです。

既に長期戦を見込んでいたからか、ここからも信長は急いでいません。

余裕にも見えますし、穿った見方をすれば呑気ともとれます。

 

信忠の小姓衆が口論の末に斬り合い&切腹!

翌14日には、多田(川西市)の谷で鷹狩りをしていました。

地元の塩河勘十郎という者が信長に休憩場所を用意し、一献献じたといいます。信長は彼への褒美に、羽織を与えたとか。

ここからまた半月ほど記述がなくなり、次は3月30日。

信長はまたしても鷹狩に出かけ、箕面の滝を見物したとか。

完全にレジャーですね。リフレッシュ休暇、戦国時代でも大事。

このとき「十三尾」という鷹が足を少し傷めてしまったようです。よい獲物をたくさん取った鷹で、信長が愛用していたとか。

信長は連日の狩りにもかかわらず疲れを見せず、皆感心したそうですが……。

十三尾が足を傷めたのも、連日の狩りに使われて疲労が抜けていなかったのでしょうか。

信長はこのように気晴らしをしながら対陣していましたが、全員がそうとは限りません。

4月1日には、刃傷沙汰が起きてしまっています。

信忠の小姓衆のうち、佐治新太郎と金森甚七郎という二人が口論の末に斬り合いになり、甚七郎は刺し殺され、新太郎は切腹したというのです。

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二人とも20歳前後の若者で、ケンカとはいえ見事な立ち回りを見せたことに、上下とも感じ入ったとか。

ケンカの原因が何だったのかまでは書かれていませんが、新太郎が自害していることからすると、自責の念があったのでしょうね。
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