絵・富永商太

織田家 信長公記

信長の休暇~平穏だった天正七年前半|信長公記第176話

2020/09/24

今回から信長公記巻十二(1579年)に入ります。

実は今回だけで一年の1/3近く時系列が進むのですが、この同年前期は周囲の情勢にあまり変化がありません。

しかし、織田信長の素顔に迫るには丁度よい内容かもしれません。

『信長の休暇』とでも言いましょうか。

順を追って見ていきましょう。

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休暇を与えられた九鬼嘉隆

天正7年(1579年)1月1日、信長は安土で新年を迎えました。

多くの武将が各所で対陣中のため、出仕してくる者はなかったようです。

5日になって、石山本願寺対策を担当していた九鬼嘉隆(九鬼水軍の棟梁)が安土へ挨拶に来ました。

信長は「今は大坂の情勢も落ち着いているので、地元に帰って妻子の顔を見てくるがいい。なるべく早く戻ってくるように」と、休暇の許可を出しています。

嘉隆は喜んで伊勢へ帰ったとか。

いつ頃地元から戻ってきたのかは記載がありませんが、嘉隆は基本的に【本能寺の変】まで堺にいたようですので、このときもさほど間を置かずに堺へ戻ったことでしょう。

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8日にはお小姓衆・お馬廻り衆・お弓衆に命じ、馬淵(近江八幡市)から切石350個以上を運ばせています。

その褒美としてか、翌9日の鷹狩の獲物は彼らに与えられました。

ここから一ヶ月以上間が開いて、次の記述は2月18日です。

 


鷹狩三昧だった2月

信長が上洛し、二条御新造に入りました。

もちろん政務もこなしていたと思われますが、2月21日・2月28日・3月2日と、短期間に三回も鷹狩をしています。

場所は東山や賀茂の山ということで近場ですし、鷹狩には軍事訓練としての意味もありますから、ただ遊んでいたわけではありません。

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……が、これまでの信長の行動を考えると、短期間で頻繁に鷹狩をするのも少々珍しくも思えますね。

3月4日には、一族のうち

が上洛してきました。

これは示し合わせたものだったようで、翌5日には信長と一緒に伊丹へ出陣しています。

この日は山崎に陣宿。6日は天神馬場からの道中で鷹狩をしつつ、郡山に陣を取っています。

前年に伊丹城攻めの本陣としていた古池田(池田市)に戻ったのは、3月7日のことです。

越前衆の不破光治・前田利家・佐々成政・原政茂・金森長近も参陣しました。

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3月13日には高槻城の城番・大津長治が病死したそうですが、大勢に影響はなかったようです。

既に長期戦を見込んでいたからか、ここからも信長は急いでいません。

余裕にも見えますし、穿った見方をすれば呑気ともとれます。

 

信忠の小姓衆が口論の末に斬り合い&切腹!

翌14日には、多田(川西市)の谷で鷹狩りをしていました。

地元の塩河勘十郎という者が信長に休憩場所を用意し、一献献じたといいます。信長は彼への褒美に、羽織を与えたとか。

ここからまた半月ほど記述がなくなり、次は3月30日。

信長はまたしても鷹狩に出かけ、箕面の滝を見物したとか。

完全にレジャーですね。リフレッシュ休暇、戦国時代でも大事。

このとき「十三尾」という鷹が足を少し傷めてしまったようです。よい獲物をたくさん取った鷹で、信長が愛用していたとか。

信長は連日の狩りにもかかわらず疲れを見せず、皆感心したそうですが……。

十三尾が足を傷めたのも、連日の狩りに使われて疲労が抜けていなかったのでしょうか。

信長はこのように気晴らしをしながら対陣していましたが、全員がそうとは限りません。

4月1日には、刃傷沙汰が起きてしまっています。

信忠の小姓衆のうち、佐治新太郎と金森甚七郎という二人が口論の末に斬り合いになり、甚七郎は刺し殺され、新太郎は切腹したというのです。

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二人とも20歳前後の若者で、ケンカとはいえ見事な立ち回りを見せたことに、上下とも感じ入ったとか。

ケンカの原因が何だったのかまでは書かれていませんが、新太郎が自害していることからすると、自責の念があったのでしょうね。

 

疾走する馬をよける遊びって……

4月8日にも信長は鷹狩に出かけていますが、ついでにちょっと物騒な遊びをしています。

まず、お馬廻衆とお小姓衆には乗馬させ、お弓衆は徒歩のまま信長の側にいさせました。

そして乗馬した者たちを徒歩の者たちに向けて駆けさせ、徒歩の者はそれを避ける――というものです。

信長も徒歩組の中に混じって馬を避けたといいますが、さすがに乗馬組のほうがある程度忖度したでしょうね。

この遊びの後、鷹狩をしたようです。

4月10日には丹羽長秀・筒井順慶・山城衆が、12日に信忠・信雄・信包・信孝が出陣。

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後者には猪子高就・飯尾尚清が同行し、三木方面に砦を築く際の検使を務めることになりました。

また、信忠の管理下にあった小屋野と池の上の両砦の留守居を、永田正貞・牧村利貞・生駒一吉に命じました。

次の話題は少々不可解なものです。

4月15日、丹波にいる明智光秀が信長に馬を献上しました。

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しかし信長は「その馬をお前に下賜する」と言って、そのまま送り返してしまったというのです。

ただ単にその馬のことが気に入らなかったのか、光秀に「お前は今そんなことをしている場合なのか?」と言いたかったのでしょうか。

 


多賀谷重経から名馬の献上

4月17日には、常陸の戦国武将・多賀谷重経から、馬が献上されてきました。

星河原毛の平均より大柄な馬で、忍耐強く、三十里(約120km)も往復できるほどの馬だったそうです。

「星河原毛」というのは、地の色がやや黄赤みを帯びた白で、白い斑点がある馬の毛色の一種だとされています。

現代の馬では「河原毛」という毛色がありますが、こちらは全体的に黄褐色~亜麻色で、たてがみや四肢の下部が黒くなっているものを指しますので、少々色が異なるかもしれません。

星河原毛=河原毛+白い斑点であれば、想像しやすいのですが。

毛色のことはともかく、名馬を贈られて信長は大いに喜び、青地与右衛門に試乗させ、彼に岡崎正宗の刀を下賜したそうです。

青地与右衛門は元亀元年(1570年)2月の相撲大会で優勝した力士ですので、この馬が大きさと忍耐強さを兼ね備えていたことは間違いないでしょう。

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「岡崎正宗」というのは、今日一般的に「正宗」と呼ばれる相模の刀工のことです。

名刀の作者として非常に有名ですが、彼の真作とされるものは非常に少なく、このとき与右衛門に与えられたものにも号(刀剣の形状や由来・持ち主などを示すあだ名のようなもの)はなかったようです。

信長は多賀谷には返礼として小袖五枚としじら織り三十反を、馬を引いてきた使者には銀子を贈りました。

ちなみにこの手の刀の名前ですと「正宗」ではなく「村正」を連想される方もおられるかもしれません。

それは「徳川家を呪った」という伝説のある刀ですね。

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※あくまで伝説であって真実ではなさそうです

 

三木城と伊丹城からの攻撃

4月18日、信長は古池田の砦を前年から守っていた塩河長満に、銀子100枚を贈りました。

使者は森長定(森蘭丸)、副使は中西権兵衛。

金額も相当のものですが、わざわざ使者の名前まで書かれているあたり、長満への評価がうかがえるでしょうか。長満も「過分な贈り物」と感激していたようです。

この日は、敵方の動きもありました。

まず稲葉貞通(稲葉一鉄)の河原口の砦に伊丹城(有岡城)方の部隊が襲撃してきたので、塩河長満・氏家直通が迎撃。3人を討ち取りました。

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また、三木方面の砦にも敵方の部隊が攻撃してきたため、織田信忠の部隊が応戦して10人ほど討ち取ったそうです。

偶然というのもありえなくはないですが、三木城の別所長治と伊丹城の荒木村重が、何かしら示し合わせていたのかもしれません。

このころはまだ三木城と有岡城の包囲戦は続いていましたので。

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4月23日にはまだ丹波にいる光秀が、隼の巣立ち前のヒナを献上してきた……そうですが、これに関する詳しい記述はありません。

何もないというのも、いろいろ想像できて余計に気にかかりますね。

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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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