「織田信長の残虐行為」として有名なものといえば、比叡山焼き討ちでしょう。
もしかしたら
【信長が冷酷な性格をしているから、生意気な坊主どもをぶっ殺した!】
そんな風に勘違いされている方もおられるかもしれません。
当然ながらそんなワケありません。
焼き討ちに至るまでにはそれなりの理由や経緯がありました。
今回はその前夜にあたる時期の、信長や一向一揆勢の動きに関するお話です。
比叡山を攻撃すべき4つの理由とは
元亀二年(1571年)8月18日。
信長は比叡山を始末するべく、北近江へ出陣しました。
浅井・朝倉両氏をはじめ、まだまだ敵の多い信長が、なぜ新たに敵を増やすようなことをしたのか?
というと、以下のような理由があったからです。
①前年に浅井・朝倉軍をかくまった
②信長の交渉には返事すらしない
③寺院内に女性を連れ込んで良からぬことをしている
④仏僧ならば禁じられているはずの、魚や肉を食べている
明らかに僧侶にあるまじき行いが明らかになったのでした。
①②だけでも信長にとっては充分攻める理由になりますし、下の二つに関しては比叡山側が後ろめたく感じるべきことです。
「恥を知れ」と言ったところでしょう。
マジメな僧侶も生臭坊主もいる
信長は本来、”真面目な”僧侶については、それなりの対応をしています。
学問の師にも僧侶がいますし、近江や京都で寺院に宿泊したことも多々ありました。
が、生臭坊主となれば話は別です。
しかも比叡山の場合、これまでの長い歴史の中でも、僧侶の本分を逸脱した言動が多々ありました。
そのあたりについては以下の記事にまとめてありますので、気になる方は併せてご覧ください。
信長の前に足利も細川も攻め込んだ~比叡山延暦寺の理想とガチバトル
続きを見る
信長は自分にとっての利害と、世間への悪影響を取り除くという二つの目的で、比叡山を攻めることにしたのだと思われます。
大風で横山城の塀と櫓が壊れた
8月18日この日は、横山城まで進みました。
浅井氏の本拠・小谷城からも近く、近江攻略の最前線です。
最前線に信長本人が来たのですから、浅井氏側でも緊張していたでしょう。
信長としても、すぐに動きたかったはずです。
しかし、「8月20日に大風で横山城の塀と櫓が壊れた」と信長公記に書かれています。
旧暦8月20日は、新暦に直すと9月下旬。
まさに台風シーズンですから、このくらいの被害が出るのも致し方ないところです。
修繕などをしたのでしょうか。
次に織田軍が動いたのはおよそ一週間後の8月26日でした。
この日は小谷と山本山の間にある中島村に布陣し、琵琶湖北岸の余呉と木本(いずれも伊香郡)を焼き討ちしています。
周辺は、比叡山と対岸にあたる位置、かつ越前にも近いので、寺側と浅井・朝倉氏の三方へ向けた牽制かもしれません。
27日は一旦横山城へ撤収し、翌28日には琵琶湖の南側・佐和山城に宿泊しております。
佐和山城の城主は丹羽長秀が務めていたので、いろいろと相談もあったことでしょう。
この日は一揆勢のこもっていた小川村・志村郷(いずれも東近江市)の焼き討ちも行いました。
小川祐忠が傘下に入った
次の戦闘があったのは、9月1日です。
電光石火が特長の織田軍にしては、ずいぶんペースが遅いようにも感じられますね。
もしかすると一揆勢や比叡山側から何かコンタクトがあれば、信長も方針変更の余地を残していたのかもしれません。
この日は
・佐久間信盛
・中川重政
・柴田勝家
・丹羽長秀
らに志村城(東近江市)を攻めさせています。
四方から攻め、城内に突入して670もの首を挙げたとか。
敵の人数はわかりませんが、一日の戦果としてはかなりのものです。
これに対し、近隣の小川城(東近江市)の主・小川祐忠が自ら人質を出して降参を申し出てきました。
信長はこれを受け入れ、祐忠を幕下に組み入れています。
この小川祐忠とは、【関ヶ原の戦い】で東軍へ寝返り、大谷吉継や平塚為広らの陣へ突撃。
世紀の一大決戦を決定づけた裏切り者たち5名の1人です。
関ヶ原に出現した「第二の裏切り者」対峙した平塚為広の奮戦ぶりに泣ける
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他に
【関ケ原の裏切り者たち】
・小早川秀秋
・赤座直保
・朽木元綱
・脇坂安治
・小川祐忠
という構成になっていますが、小川祐忠はこのタイミングで織田家に参加していたんですね。
ちなみに小早川秀秋は「最初から東軍と見られていた」という見方が強く、さらには脇坂安治も戦後は徳川家康に所領を安堵されています。
他の3名は(赤座・朽木・小川)は改易等の憂き目に遭いました。
「おまえらみたいな裏切り者は徳川政権には要らん!」ってことですね。まぁ、事前に連絡していた――という方もいたのですが、そこはキッチリ意思疎通しておかないとね。
大きく脱線してしまいました。
話を戻しましょう。
「降伏してきた者は基本的に許す」
織田信長は、9月3日に常楽寺(安土町)へ駐留。
金ヶ森城(守山市)の一揆勢を攻めました。
ここでは”田を刈り、鹿垣を巡らせて外部との連絡を断つのですが……一揆勢が人質を出して降参してくると、これを認めております。
つまり信長は、
「降伏してきた者は基本的に許す」
というスタンスで来ているわけですね。
それは小川城のように戦闘に至る前であっても、金ヶ森城のように戦闘が始まった後でも変わりません。
もしも比叡山から平和的な交渉をされれば、信長は応じるつもりだったのではないでしょうか。
前年にすっぽかされていますから、多少厳しい条件はつけたと思われますが。
しかし、そうはなりませんでした。
比叡山は近隣の信徒たちに、信長への抗戦を命じていたほどです。
この節は「9月11日に大津の山岡景猶の城へ滞在した」というところで終わっています。
期間はやはり一週間は空いていますね。
おそらくや待っていたのでしょう。
『信長公記』に全く記載がないということは、比叡山からの連絡はなかったのでしょう。
こうなれば仕方ありません。
いよいよ12日。比叡山攻略が始まるのでした。
長月 七紀・記
※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
大河ドラマ『麒麟がくる』に関連する武将たちの記事は、以下のリンク先から検索できますので、よろしければご覧ください。
麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)