今回の『信長公記』解説は「巻十二 第十七節」で【伊丹城(有岡城)の攻略】に関するお話です。
荒木村重に裏切られてから長期間に渡って続いていた伊丹城の包囲。
天正七年(1579年)の秋、ようやく事態が動き始めました。
※『信長公記』の前話が以下となりますが、本連載は一話毎に成立しており、そのままお読みいただいて問題ありません。
信長へ直訴した山崎の町人!提出したのは偽文書だと!? 信長公記191話
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複数の足軽部隊長を寝返らせ
事態の硬直を破ったのは織田家の重臣としてお馴染みの滝川一益でした。
信長家臣の滝川一益は織田家最強のオールラウンダーだった?62年の波乱な生涯
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まずは佐治新介を仲介として、城内の中西新八郎を調略。
織田方につかせると、今度は10月15日、中西新八郎が複数の足軽部隊長を織田方に寝返らせ、上臈塚の砦(現・墨染寺付近)に滝川軍を引き入れることに成功したのです。
滝川軍は多くの敵を切り捨て、生き残りは伊丹城に逃げ込んでいきました。
これにより伊丹の町も織田方の占領下となります。
彼らは城下にあった武士の屋敷を焼き払って伊丹城を裸同然にし、落城も間近という状況にまで追い込みました。
村重の義弟・野村丹後も切腹
城主の村重が、すでに同城から逃げ出したことは以下の記事に詳しくありますが。
村重が有岡城から脱出!妻子家臣を残してそのまま逃げた 信長公記185話
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滝川軍に攻め込まれて屋敷を焼き払われ、城に付随する各砦の荒木軍も戦意を失くしていったようです。
こういうときこそリーダーたる城主の出番なんですけどね。
居ないんですから仕方ない。岸の砦(現・猪名野神社付近)にいた渡辺勘太夫は、もはやこれまでと織田軍へ寝返ろうとして、多田(川西市)まで撤退しました。
しかし、事前の連絡がなかったため、織田方から怪しまれ、切腹を命じられたといいます。不運すぎる……。
また、鵯塚(ひよどりづか)の砦(現・市立有岡小学校の南)も織田軍に攻め込まれてほとんどが討死。
野村丹後という者が雑賀の兵と共に守り、途中で降伏しようとしたのですが、こちらも許されず切腹を言い渡されました。首は安土へ送られたようです。
野村の妻は村重の妹で、彼女も深く嘆き悲しみ、目も当てられないほど哀れな姿だったとか……。
事前に「降伏したい」という意思を伝えていれば、また違った道もあったかもしれません。
ともかく「ここぞ!」とばかりに、織田軍はさらに攻勢を強めていきました。
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