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【滝川部隊が伊丹城下を制圧】
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「降参するので、命だけは助けてほしい」
伊丹城の間近へ迫った織田軍は、坑夫に隧道を掘らせ、攻めることにしました。
城内からは
「降参するので、命だけは助けてほしい」
という願い出がありましたが、構わず攻め続けたそうです。
おそらく、以前、信長が様子を見に来たときや、慰労金を配ったときなどに、「降伏は認めないように」と通達されていたのでしょう。
一方、10月24日には丹後・丹波を平定し終えた光秀が安土へ帰還しました。
報告と共に、しじら(綿織物)100反を献上しています。
『信長公記』では丹後・丹波に関する記述の間が空いているのでわかりにくくなっていますが、光秀は四年ほどかけてこの地域を攻略しています。
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その間に別方面への出陣を命じられたこともあり、かなりの疲労と達成感を感じていたことでしょう。
そのためか、翌年天正八年の正月頃まで、光秀は大きな軍事作戦を命じられていなかったようです。
光秀は信長より年長だと考えられていますし、体調を慮る意味があったのかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)