佐々成政/wikipediaより引用

織田家 信長公記

十四条の合戦で成政&恒興お手柄|信長公記第40話

2019/05/14

今回は前回の続き、西美濃侵攻の話です。

やはり地名を取って「十四条の合戦」と呼ばれています。

時期としては永禄四年(1561年)5月。

前回「森辺の戦い」から10日ほど経ったあたりです。

📚 『信長公記』連載まとめ

 

稲葉山城からは斎藤軍の本隊

この間、信長軍は洲俣(=墨俣)に砦を築き、駐留しながら好機をうかがっていました。

すると5月23日、稲葉山城から斎藤軍が出てきました。

いわずもがな、稲葉山城は斎藤氏の本拠ですから、斎藤氏の本隊といってもいいでしょう。

斎藤軍は稲葉山城から西に進み、十四条村(現・岐阜県本巣市)に陣を構えます。

これを知った信長は、直ちに洲俣から出陣し、北へ向かって斎藤軍と戦闘を開始。

しかし、朝の戦闘で信長軍の織田広良という人が討たれたため、一度退かざるを得なくなりました。

広良はかつての犬山城主・織田信康の次男で、信長からするとイトコにあたります。

ただし、広良の没年を翌永禄五年(1562年)とする説もあるので、このとき討ち死にしたのは別の織田氏親族かもしれません。時代が時代ですから、こういった混同は仕方ないですね。

 


恒興と成政が協力して討ち取る

斎藤軍は勢いに乗り、十四条から少し北に行った北軽海という地点で、西向きに陣を整えました。

一方、織田信長は、自軍内を見回って兵の動揺などを確かめてから、西軽海に移動させます。

こちらは東向きに陣を構えました。

おおまかに言って、本来は斎藤氏が美濃=西側、信長が尾張=東側ですから、お互いに本拠への帰路を塞いだような位置関係になります。

地名からすると、非常に近い位置同士で布陣したことになりますし、敵を無視して撤退しようとしても、追撃を受けて壊滅する可能性が高かったでしょう。

となれば、あとは戦って道を切り開くのみです。

また歩戦が始まり、そのまま日が落ちて夜戦となりました。

今度は信長軍の士気のほうが高く、敵の先陣だった真木村牛介を追い散らし、池田恒興と佐々成政が敵の稲葉又左衛門を協力して討ち取ったといいます。

池田恒興は、実母が信長の乳母で、本能寺の変後には清州会議にも参加した織田家の重臣。

池田恒興/wikipediaより引用

佐々成政は信長の馬廻衆として出世した武将で、後の「さらさら越え」で有名ですね。

※さらさら越え……小牧・長久手の戦いで徳川家康についたもののハシゴを外され、家康の再挙兵を訴えるため豪雪の飛騨山脈を越え、浜松まで向かったという話

 

一夜城伝説は江戸時代になってから

斎藤軍は逃げる者、最後まで抵抗する者などさまざまでしたが、前者のほうが多かったようです。

信長は用心し、夜が明けるまで陣を構えていましたが、24日の朝に一度洲俣まで退きました。

その後、洲俣の砦を引き払い、清洲へ帰陣しています。

次の戦までしばらく間が空いていますし、梅雨の時期であること&川沿いであることを考えると、このとき使った砦は水害で流されてしまった……という可能性もありますね。

後に、洲俣=墨俣は豊臣秀吉の一夜城伝説で有名になりますが、このとき信長が作っていた砦の跡をいくらか利用したのかもしれません。

日本では砦と城の区別が曖昧ですし、一夜城伝説は江戸時代になってから出てきたものですから、どこかで話が混同・誇張されたのでしょう。

有名な話が必ずしも真実とは限らない――そんな代表例と思って差し支えないかと。

📚 『信長公記』連載まとめ

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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