最初の節は、比較的穏やかな内容ながら、桶狭間の戦いで父の今川義元を討たれた今川氏真が登場します。
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と言ってもリベンジとかそういう話ではなく……。
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関所の撤廃や道路整備
天正二年の暮れ、信長は織田家の領内に道路を造るよう命じていました。
年が明けて天正三年の2月中に竣工し、そのことが簡単に紹介されています。
入り江や川には舟橋をかけ、急勾配の道は削って緩やかにし、岩石で道が狭まっていたところはその岩石を除去、多くの人が通りやすいように……という実に細かな工事でした。
道幅は三間半(約6m)とし、両側に松と柳を植えたといいます。
周辺の住民たちも喜んだのでしょう。自ら清掃に協力し、使いやすいものになったようです。
以前から信長は関所の撤廃をしていたので、今回の街道整備により、さらに交通や物流が盛んに。そこから庶民の生活安定にも繋がった……と『信長公記』に記されております。
戦国大名や武家の”道”に関する考え方は、主に2つあります。
①領民や他領と行き来する商人の便宜を図るため、道を整理して交通と流通を活性化させる
②敵に攻められたときの防御機能とするため、わざと複雑にする
どちらも一長一短ですので、なかなか決めにくいところがあります。信長の場合は前者にかなりの比重を置いていて、その現れが関所の撤廃や道路整備というわけです。
長秀の居城・佐和山城へ立ち寄り
後半は、別の話題に移ります。
2月27日、信長は京都へ出発し、垂井(不破郡垂井町)に宿泊。翌日も雨のため、同地に滞在していました。
信長のイメージからすると意外な気もしますが、行軍やよほどの急用でなければ無理はしない、ということでしょうね。
でないと家臣の不満もたまりますし、真冬の雨に打たれて健康を損ねる者が出れば、かえって旅程が長くなってしまいます。これまでにも、真冬の強行軍で人足などに凍死者を出したことがありますから、多少意識していたのかもしれません。
29日は丹羽長秀の居城・佐和山城へ立ち寄り、3月2日は永原(野州市)泊。
ちなみに佐和山城は磯野員昌も浅井家臣時代に城主だったところですね。
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3日に京都へ入り、相国寺を宿所として政務等に取り掛かりました。
相国寺と言えば大河ドラマ『麒麟がくる』で序盤のキーマンだった三好長慶と松永久秀が、細川晴元の軍とぶつかるところでもありますね(1551年相国寺の戦い)。
むろん1575年には、すでに三好一派は京都から追い出されており、以前と比べて治安もかなり良化。
そこへ、驚くべき人物が信長を尋ねます。それは……。
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