今川氏真の肖像画

今川氏真/wikipediaより引用

今川家 信長公記

義元の息子・氏真が信長の前で「蹴鞠」を披露|信長公記第117話

2020/03/09

今回から、巻八=天正三年(1575年)の話。

最初の節は、比較的穏やかな内容ながら、桶狭間の戦いで父の今川義元を討たれた今川氏真が登場します。

と言ってもリベンジとかそういう話ではなく……。

📚 『信長公記』連載まとめ

 

関所の撤廃や道路整備

天正二年の暮れ、信長は織田家の領内に道路を造るよう命じていました。

年が明けて天正三年の2月中に竣工し、そのことが簡単に紹介されています。

入り江や川には舟橋をかけ、急勾配の道は削って緩やかにし、岩石で道が狭まっていたところはその岩石を除去、多くの人が通りやすいように……という実に細かな工事でした。

道幅は三間半(約6m)とし、両側に松と柳を植えたといいます。

周辺の住民たちも喜んだのでしょう。自ら清掃に協力し、使いやすいものになったようです。

以前から信長は関所の撤廃をしていたので、今回の街道整備により、さらに交通や物流が盛んに。そこから庶民の生活安定にも繋がった……と『信長公記』に記されております。

戦国大名や武家の”道”に関する考え方は、主に2つあります。

①領民や他領と行き来する商人の便宜を図るため、道を整理して交通と流通を活性化させる

②敵に攻められたときの防御機能とするため、わざと複雑にする

どちらも一長一短ですので、なかなか決めにくいところがあります。信長の場合は前者にかなりの比重を置いていて、その現れが関所の撤廃や道路整備というわけです。

 


長秀の居城・佐和山城へ立ち寄り

後半は、別の話題に移ります。

2月27日、信長は京都へ出発し、垂井(不破郡垂井町)に宿泊。翌日も雨のため、同地に滞在していました。

信長のイメージからすると意外な気もしますが、行軍やよほどの急用でなければ無理はしない、ということでしょうね。

でないと家臣の不満もたまりますし、真冬の雨に打たれて健康を損ねる者が出れば、かえって旅程が長くなってしまいます。これまでにも、真冬の強行軍で人足などに凍死者を出したことがありますから、多少意識していたのかもしれません。

29日は丹羽長秀の居城・佐和山城へ立ち寄り、3月2日は永原(野州市)泊。

ちなみに佐和山城は磯野員昌も浅井家臣時代に城主だったところですね。

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3日に京都へ入り、相国寺を宿所として政務等に取り掛かりました。

相国寺と言えば大河ドラマ『麒麟がくる』で序盤のキーマンだった三好長慶と松永久秀が、細川晴元の軍とぶつかるところでもありますね(1551年相国寺の戦い)。

むろん1575年には、すでに三好一派は京都から追い出されており、以前と比べて治安もかなり良化。

そこへ、驚くべき人物が信長を尋ねます。

それは今川氏真でした。

 

氏真が百端帆を献上

かつて【桶狭間の戦い】で織田信長が討ち取った、あの今川義元の息子。

16日、なんと氏真から信長を訪問したのです。

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身の処し方としては正解ですが、親の仇に挨拶しに行くのですから、感情的には非常に複雑ですよね。

もちろん、ただ来ただけではありませんでした。

【百端帆(ひゃくたんぽ)】を献上しています。

なんじゃそれ?
と、残念ながら、それがどんなものだったのかは不明。香炉か茶道具だろうと推測されておりますが、いずれにせよ氏真もまた、信長とまた違った意味で大物ですよね。

この直後に

【以前も「千鳥の香炉」と“飯尾宗祇(室町時代初期の連歌師)から伝えられた”という香炉を献上していた】

という話が出てきますので、百端帆も香炉の可能性が高いでしょうか。そのとき信長は千鳥の香炉だけを受け取って、後者は返していたようです。

 

ついに開かれた蹴鞠の会

他にもいくらか話をしたようで、「氏真が蹴鞠をする」という話に信長は興味を持ったのか「今度見せてもらいたい」と頼んでいます。

そして20日、相国寺で氏真と公家数名によって蹴鞠の会が開かれました。

参加した公家は以下のようなメンツ。

・三条西実枝父子
高倉永相たかくらながすけ父子
・飛鳥井雅教父子
・広橋兼勝
・ruby>五辻為仲<いつつじためなか
・庭田重保
・烏丸光康

試合の内容については書かれていないのですが、蹴鞠を家業(お家芸)とする飛鳥井家の人が入っているあたり、結構ガチな会だった可能性もありますね。

信長は参加はせず、見物だけしています。

氏真に対しても高圧的に「蹴鞠を披露せよ」とかそんなんではなく、軽いお願いだったような雰囲気がありますよね。

合戦は戦国武家の日常。親を殺された恨みは忘れられないでしょうが、その上で織田信長と今川氏真の間に新たな関係が築かれたような気もします。

と、穏やかな話題で開始した天正三年ですが、当然そればかりではありません。

次回からは、東の大敵に関する話が顔をのぞかせます。

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
『信長と消えた家臣たち』(→amazon
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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