今回は、ちょっと物騒な事件から、信長の「家庭に対する考え方」に注目です。
天正六年(1578年)1月29日、織田家のお弓衆・福田与一の家から出火し、火事になってしまいました。
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妻子を安土に済ませていない側近が120名も
被害については書かれていないので、おそらくすぐに消し止められたと思われます。
しかし「織田信長の側近であるお弓衆の家から火が出た」というのは中々の不祥事。
現代でいえば、警察官や自衛官の自宅で火事が起きたようなものでしょうか。そんなことがあったら、上司や同僚、一般人は不安になりますよね。
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そのため信長は激怒しました。
「こんなことが起きるのは、妻子を安土に移らせていないからだろう!」
菅屋長頼に命じて、お弓衆とお馬廻り衆の妻子が安土に住んでいるかどうかを調べさせました。
結果、お弓衆60名・お馬廻り衆60名が妻子を移していないことがわかります。
信長は再び怒り、一斉に叱責しました。
しかし現実的に考えれば、引っ越しにも手間や費用がかかりますし、他に何らかの事情があって妻子を安土に呼んでいなかった者もいるかもしれません。
信長が、その辺の人情機微を無視するタイプでないことは、小牧山城への引っ越しエピソードからうかがえます。
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それでも信長が妻子の安土在住を推し進めようとしたのは「家の中のことは主人の妻が取り仕切るべき」と考えたからではないでしょうか。
要は、夫人の役割を重く見ていたと思われ、そうした話がいくつか伝わっています。
秀吉とねね
信長自身、正室・濃姫(帰蝶)との間に子供がない様子もあって側室は多いですが、女性関係のトラブルはほぼ伝わっていません。
おそらく、奥のことは濃姫に取り仕切らせていたのでしょう。
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嫡子の織田信忠も側室生まれ(一説には生駒吉乃)と目されておりますが、形式的には濃姫の養子とされ、正室の立場を重んじる姿勢を保っています。
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そこで注目したいのが、信長と「武士の妻」に関するエピソード。
有名なものが二つあります。
秀吉が長浜城にいた頃、浮気を繰り返したため、ねねが非常に怒り悲しんでいたことがありました。
そしてねねは、なんと信長に愚痴りに行ったのです。
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それだけでも驚きですが、信長はねねの愚痴を咎めもせずに聞いてやり、後で励ましの手紙を出しました。
要約すると以下のような内容です。
「お前はあのハゲネズミ(秀吉)にはもったいないくらい良い女だから、嫉妬などせず正妻として堂々としていなさい」
ねねが読みやすいようにかな書き、それでいて公文書であることを示す「天下布武」の印を捺してあるという気配りぶりでした。
ちょっと信じがたい話ですが、この手紙は数少ない信長の直筆といわれており、現存していますので、創作の類ではありません。
そしてもう一つが……。
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