絵・富永商太

織田家 信長公記

信長のお叱り「戦国武将たるもの家庭を妻に任せよ」|信長公記第160話

2020/07/08

今回は、ちょっと物騒な事件から、信長の「家庭に対する考え方」に注目です。

天正六年(1578年)1月29日、織田家のお弓衆・福田与一の家から出火し、火事になってしまいました。

📚 『信長公記』連載まとめ

 

妻子を安土に済ませていない側近が120名も

被害については書かれていないので、おそらくすぐに消し止められたと思われます。

しかし「織田信長の側近であるお弓衆の家から火が出た」というのは中々の不祥事。

現代でいえば、警察官や自衛官の自宅で火事が起きたようなものでしょうか。そんなことがあったら、上司や同僚、一般人は不安になりますよね。

織田信長
織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る

続きを見る

そのため信長は激怒しました。

「こんなことが起きるのは、妻子を安土に移らせていないからだろう!」

菅屋長頼に命じて、お弓衆とお馬廻り衆の妻子が安土に住んでいるかどうかを調べさせました。

結果、お弓衆60名・お馬廻り衆60名が妻子を移していないことがわかります。

信長は再び怒り、一斉に叱責しました。

しかし現実的に考えれば、引っ越しにも手間や費用がかかりますし、他に何らかの事情があって妻子を安土に呼んでいなかった者もいるかもしれません。

信長が、その辺の人情機微を無視するタイプでないことは、小牧山城への引っ越しエピソードからうかがえます。

小牧山城移転に見る信長の知恵|信長公記第42話

続きを見る

それでも信長が妻子の安土在住を推し進めようとしたのは「家の中のことは主人の妻が取り仕切るべき」と考えたからではないでしょうか。

要は、夫人の役割を重く見ていたと思われ、そうした話がいくつか伝わっています。

 


秀吉とねね

信長自身、正室・濃姫(帰蝶)との間に子供がない様子もあって側室は多いですが、女性関係のトラブルはほぼ伝わっていません。

おそらく、奥のことは濃姫に取り仕切らせていたのでしょう。

嫡子の織田信忠も側室生まれ(一説には生駒吉乃)と目されておりますが、形式的には濃姫の養子とされ、正室の立場を重んじる姿勢を保っています。

そこで注目したいのが、信長と「武士の妻」に関するエピソード。

有名なものが二つあります。

ひとつは豊臣秀吉と、その妻・ねねとの逸話です。

秀吉が長浜城にいた頃、浮気を繰り返したため、ねねが非常に怒り悲しんでいたことがありました。

そしてねねは、なんと信長に愚痴りに行ったのです。

秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)
秀吉の妻ねね(寧々/北政所/高台院)の生涯|天下人を支えた女性の素顔

続きを見る

豊臣秀吉
豊臣秀吉の生涯|足軽から天下人へ驚愕の出世 62年の事績を史実で辿る

続きを見る

それだけでも驚きですが、信長はねねの愚痴を咎めもせずに聞いてやり、後で励ましの手紙を出しました。

要約すると以下のような内容です。

「お前はあのハゲネズミ(秀吉)にはもったいないくらい良い女だから、嫉妬などせず正妻として堂々としていなさい」

ねねが読みやすいようにかな書き、それでいて公文書であることを示す「天下布武」の印を捺してあるという気配りぶりでした。

ちょっと信じがたい話ですが、この手紙は数少ない信長の直筆といわれており、現存していますので、創作の類ではありません。

 

信忠と松姫

もうひとつの手紙エピソードは「息子の織田信忠に対して、婚約者・松姫との付き合い方を教示した」というものです。

松姫は、あの武田信玄の娘。

武田信玄の肖像画
武田信玄の生涯|最強の戦国大名と名高い53年の事績を史実で振り返る

続きを見る

信忠と松姫は、織田家と甲斐武田家との友好関係を保つため、かつて婚約をしておりました。

その際、信長は信忠に「松姫殿へこまめに手紙を書き、贈り物をするように」と言いつけていたとされます。

いつ情勢が変わるかわからない時代で、本当に結婚するかどうかわからない遠方の嫁に対する指示としては、かなり細やかなものだと思われます。

この婚約は結局破談になり、信忠と松姫は結婚どころか直接顔を合わせることもありませんでしたが……その後も、二人の文通は続いていたようです。

信長の嫡男と信玄の娘による切ない『恋文物語』|信長公記第118話

続きを見る

一説には、本能寺の変の直前、信忠は松姫を京都に呼ぼうとしていたともいわれます。

はたまた、信忠の嫡子・三法師(織田秀信)の実母は松姫だという伝承まであるほどです。

さすがに後者が事実である可能性は低いと思われますが、両者の友好関係が続いていたからこそ、そのような話が生まれたのではないでしょうか。

織田秀信(三法師)
三法師こと織田秀信の生涯|信長の嫡孫は清洲会議後をどう生きたのか

続きを見る

これらの逸話を総合すると、信長は自分の正室だけでなく、「武士の妻」の立場を非常に重んじていたとみて間違いないでしょう。

戦前の家父長主義や、今日でいうところの「男女同権」とは少し違う、「男女分業」のような価値観を持っていたと考えられます。

 

道路工事で不問に付す

閑話休題。
火災と安土移住の件に話を戻します。

もし、こんな不始末が今後も起きるようでは、いつ大火事となって織田家の権威失墜や人的&物的被害が起きるかわかりません。

そのため、信長は少々手荒な手段で側近たちの妻子の引っ越しを急がせました。

岐阜の信忠に人手を出させ、尾張に妻子を置いている者の家を焼き、敷地内の竹や木まで切らせたといいます。

だいぶ過激ですが、火事の恐ろしさを思い知らせて”家のことは妻が守るべきである”と諭すつもりだったとか? ……好意的に捉え過ぎですかね。

ともかく家を焼かれてしまった側近の妻たちは、取るものもとりあえず安土へ移ったとか。

妻子を移していなかった120名(お弓衆60名・お馬廻り衆60名)については、安土城南の入り江沿いに道を作らせ、労働をもって罰とし、道が完成したところで赦免したといいます。

道を作る計画が先にあって、人足を使う代わりに側近たちの労役にしたのかもしれません。

罰を与えるためだけに、無用な道を作るというのも考えにくいですしね。

こうした戦以外の話題が記録されているのも、『信長公記』が高く評価されている理由であり、面白いところです。

📚 『信長公記』連載まとめ

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


あわせて読みたい関連記事

織田信長
織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る

続きを見る

小牧山城移転に見る信長の知恵|信長公記第42話

続きを見る

濃姫(帰蝶)
道三の娘で信長の妻・帰蝶(濃姫)の生涯|本能寺の変後はどう過ごした?

続きを見る

織田信忠
織田信忠の生涯|なぜ信長の嫡男は本能寺の変で自害せざるを得なかったのか

続きを見る

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

TOPページへ


 

リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-織田家, 信長公記

目次