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【戦国武将は家庭を妻に任せよ】
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信忠と松姫
もうひとつの手紙エピソードは「息子の織田信忠に対して、婚約者・松姫との付き合い方を教示した」というものです。
松姫は、あの武田信玄の娘。
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信忠と松姫は、織田家と甲斐武田家との友好関係を保つため、かつて婚約をしておりました。
その際、信長は信忠に「松姫殿へこまめに手紙を書き、贈り物をするように」と言いつけていたとされます。
いつ情勢が変わるかわからない時代で、本当に結婚するかどうかわからない遠方の嫁に対する指示としては、かなり細やかなものだと思われます。
この婚約は結局破談になり、信忠と松姫は結婚どころか直接顔を合わせることもありませんでしたが……その後も、二人の文通は続いていたようです。
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一説には、本能寺の変の直前、信忠は松姫を京都に呼ぼうとしていたともいわれます。
はたまた、信忠の嫡子・三法師(織田秀信)の実母は松姫だという伝承まであるほどです。
さすがに後者が事実である可能性は低いと思われますが、両者の友好関係が続いていたからこそ、そのような話が生まれたのではないでしょうか。
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これらの逸話を総合すると、信長は自分の正室だけでなく、「武士の妻」の立場を非常に重んじていたとみて間違いないでしょう。
戦前の家父長主義や、今日でいうところの「男女同権」とは少し違う、「男女分業」のような価値観を持っていたと考えられます。
道路工事で不問に付す
閑話休題。
火災と安土移住の件に話を戻します。
もし、こんな不始末が今後も起きるようでは、いつ大火事となって織田家の権威失墜や人的&物的被害が起きるかわかりません。
そのため、信長は少々手荒な手段で側近たちの妻子の引っ越しを急がせました。
岐阜の信忠に人手を出させ、尾張に妻子を置いている者の家を焼き、敷地内の竹や木まで切らせたといいます。
だいぶ過激ですが、火事の恐ろしさを思い知らせて”家のことは妻が守るべきである”と諭すつもりだったとか? ……好意的に捉え過ぎですかね。
ともかく家を焼かれてしまった側近の妻たちは、取るものもとりあえず安土へ移ったとか。
妻子を移していなかった120名(お弓衆60名・お馬廻り衆60名)については、安土城南の入り江沿いに道を作らせ、労働をもって罰とし、道が完成したところで赦免したといいます。
道を作る計画が先にあって、人足を使う代わりに側近たちの労役にしたのかもしれません。
罰を与えるためだけに、無用な道を作るというのも考えにくいですしね。
こうした戦以外の話題が記録されているのも、『信長公記』が高く評価されている理由であり、面白いところです。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)