天正五年(1577年)秋。
信長が東山で鷹狩に興じ、京都に滞在しながら政務を片付けていた頃。
中国攻略を命じられた羽柴秀吉は、西へ西へと攻め込んでいました。
以下の記事にもありますように、豊臣秀吉(羽柴秀吉)が11月半ばに播磨の大部分を傘下に獲得。
最後の仕上げにかかろうという頃合いです。
上月城を包囲しながら福原城も攻略
11月27日、秀吉は熊見川を渡り、上月城を攻めることにしました。
ここは毛利氏方の宇喜多氏の城で、播磨国内では最後の拠点。
毛利氏方にとっても最終防衛ラインであり、秀吉にとっては「ここを攻略すれば播磨を平定したことになる」という重要なポイントであります。
秀吉はほぼ同時に福岡野の城(福原城=作用城)も攻撃させました。
※以下、黄色い拠点が姫路城で、赤い拠点が上月城と福原城
福原城の攻略を請け負ったのは小寺孝高(黒田官兵衛)と竹中半兵衛(重治)。
いわゆる「両兵衛」と呼ばれ、フィクションではたびたび秀吉の軍師とされる二人ですね。
『信長公記』でこの両者が同時に、しかも宇喜多直家と戦う表記があるなんて、なんだか胸アツです。
しかし、コトはそう簡単ではありません。
さすがに敵も必死で、城を焼き払った後に包囲していたところ、宇喜多直家が小寺・竹中隊の後方を攻撃してきました。
見せしめのため上月城兵を全員処刑
宇喜多直家は、暗殺の名人として有名な武将です。
-

戦国の謀殺王・宇喜多直家の生きる道~没落の身から息子の秀家は五大老へ出世
続きを見る
直家に対し、小寺・竹中隊だけで応じようとすると挟み撃ちになってしまうため、秀吉が直家勢を攻撃。数十人を討ち取りました。
『信長公記』にはそれ以上の記載がありませんが、撃退できたということでしょう。
攻撃を終え、引き返し秀吉は、上月城の包囲を開始します。
-

豊臣秀吉の生涯|足軽から天下人へ驚愕の出世 62年の事績を史実で辿る
続きを見る
籠城の備えが整っていなかったのか。あるいは援軍が見込めないと思ったのか。
包囲開始から7日目に城兵が城主・赤松政範の首を持って降参を申し出てきました。
一説には、政範は自ら腹を切ることを決め、
「私の首と引き換えに降伏を申し出でよ。それが叶わなければ最後まで抵抗せよ」
と言っていたとか、いないとか。
しかし秀吉は降伏を許さず、上月城の兵を全員処刑するのです。
さらに、城内の婦女子も備前と美作(みまさか)との国境で磔刑とし、毛利方への見せしめにしたとか。
政範の首は安土に送り、信長の実検に供しています。
そして秀吉が上月城へ入ると、また新たな有名武将が登場するのです。
尼子再興の悲願を抱いた鹿介が
豊臣日秀吉は上月城へ。
客将として秀吉軍に加わっていた山中幸盛(山中鹿介)を入れました。
この鹿介は、戦国ファンにとって非常に著名な武将であり、
「毛利氏に滅ぼされていた尼子氏の旧臣で、お家再興のために奔走していた」
として知られます。
鹿介からすれば、秀吉や織田家は”敵の敵なので味方”という状況だったのですね。
-

尼子家の戦国武将・山中鹿介(幸盛)の生涯 七難八苦に立ち向かった苦難の道とは
続きを見る
こうして秀吉は福岡野の城でも250人ほどを討ち取り、見事に播磨を傘下に収めました。
信長は12月3日に京都から安土に帰還したとあるので、この報告を京都で聞いたと思われます。
この年の夏、能登七尾城救援の途中で秀吉は勝手に引き上げるという失態を犯していましたが、この働きで帳消し同然になりました。
-

織田軍と上杉軍が正面から激突!手取川の戦いで謙信はどこまで勝家に大勝した?
続きを見る
次回、少しだけこの件に関する信長の感情がうかがえます。
あわせて読みたい関連記事
-

豊臣秀吉の生涯|足軽から天下人へ驚愕の出世 62年の事績を史実で辿る
続きを見る
-

秀吉の軍師とされる黒田官兵衛の生涯~天下人を狙える器だったというのは本当か
続きを見る
-

竹中半兵衛の生涯|官兵衛と並ぶ“伝説の軍師” 数々の功績の真偽に迫る
続きを見る
-

戦国の謀殺王・宇喜多直家の生きる道~没落の身から息子の秀家は五大老へ出世
続きを見る
-

尼子家の戦国武将・山中鹿介(幸盛)の生涯 七難八苦に立ち向かった苦難の道とは
続きを見る
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)






