黒田官兵衛(左)と竹中半兵衛(右)の肖像画

黒田官兵衛(左)と竹中半兵衛(右)/wikipediaより引用

豊臣家 信長公記

両兵衛(官兵衛と半兵衛)が謀将・直家と対決|信長公記第155話

2020/06/26

天正五年(1577年)秋。

信長が東山で鷹狩に興じ、京都に滞在しながら政務を片付けていた頃。

中国攻略を命じられた羽柴秀吉は、西へ西へと攻め込んでいました。

以下の記事にもありますように、豊臣秀吉(羽柴秀吉)が11月半ばに播磨の大部分を傘下に獲得。

最後の仕上げにかかろうという頃合いです。

📚 『信長公記』連載まとめ

 

上月城を包囲しながら福原城も攻略

11月27日、秀吉は熊見川を渡り、上月城を攻めることにしました。

ここは毛利氏方の宇喜多氏の城で、播磨国内では最後の拠点。

毛利氏方にとっても最終防衛ラインであり、秀吉にとっては「ここを攻略すれば播磨を平定したことになる」という重要なポイントであります。

秀吉はほぼ同時に福岡野の城(福原城=作用城)も攻撃させました。

※以下、黄色い拠点が姫路城で、赤い拠点が上月城と福原城

福原城の攻略を請け負ったのは小寺孝高(黒田官兵衛)と竹中半兵衛(重治)。

いわゆる「両兵衛」と呼ばれ、フィクションではたびたび秀吉の軍師とされる二人ですね。

『信長公記』でこの両者が同時に、しかも宇喜多直家と戦う表記があるなんて、なんだか胸アツです。

しかし、コトはそう簡単ではありません。

さすがに敵も必死で、城を焼き払った後に包囲していたところ、宇喜多直家が小寺・竹中隊の後方を攻撃してきました。

 


見せしめのため上月城兵を全員処刑

宇喜多直家は、暗殺の名人として有名な武将です。

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直家に対し、小寺・竹中隊だけで応じようとすると挟み撃ちになってしまうため、秀吉が直家勢を攻撃。数十人を討ち取りました。

『信長公記』にはそれ以上の記載がありませんが、撃退できたということでしょう。

攻撃を終え、引き返し秀吉は、上月城の包囲を開始します。

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籠城の備えが整っていなかったのか。あるいは援軍が見込めないと思ったのか。

包囲開始から7日目に城兵が城主・赤松政範の首を持って降参を申し出てきました。

一説には、政範は自ら腹を切ることを決め、

「私の首と引き換えに降伏を申し出でよ。それが叶わなければ最後まで抵抗せよ」

と言っていたとか、いないとか。

しかし秀吉は降伏を許さず、上月城の兵を全員処刑するのです。

さらに、城内の婦女子も備前と美作(みまさか)との国境で磔刑とし、毛利方への見せしめにしたとか。

政範の首は安土に送り、信長の実検に供しています。

そして秀吉が上月城へ入ると、また新たな有名武将が登場するのです。

 

尼子再興の悲願を抱いた鹿介が

豊臣日秀吉は上月城へ。

客将として秀吉軍に加わっていた山中幸盛(山中鹿介)を入れました。

この鹿介は、戦国ファンにとって非常に著名な武将であり、

「毛利氏に滅ぼされていた尼子氏の旧臣で、お家再興のために奔走していた」

として知られます。

鹿介からすれば、秀吉や織田家は”敵の敵なので味方”という状況だったのですね。

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こうして秀吉は福岡野の城でも250人ほどを討ち取り、見事に播磨を傘下に収めました。

信長は12月3日に京都から安土に帰還したとあるので、この報告を京都で聞いたと思われます。

この年の夏、能登七尾城救援の途中で秀吉は勝手に引き上げるという失態を犯していましたが、この働きで帳消し同然になりました。

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次回、少しだけこの件に関する信長の感情がうかがえます。

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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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