織田家 信長公記

清州城を乗っ取れ!~戦国初心者にも超わかる信長公記17話

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信長公記』首巻の第17節は、いよいよ織田信長vs清洲衆の戦いにケリがつきます。

クライマックスは派手な合戦!
ではなく、謀略によるものでした。

 

家老四名のうち三名が既に死去

ここまでの流れをまとめておきましょう。

まず清洲衆には四人の家老がおりました。

【清洲衆】
◆当主:織田信友
◆家老
・坂井大膳
・坂井甚介
・河尻与一
・織田三位

その家老のうち、
・坂井甚介(11話 茅野の戦い
・織田三位(16話 安食の戦い
をそれぞれの戦いで失っておりました。

河尻与一という武将については素性自体がよくわかっておりません。

太田牛一も第17節で
「清洲の家老は大膳一人になっていた」
と記しておりますので、おそらく既に死亡していたのでしょう。

安食の戦いでは、河尻”左馬丞”という人物が戦死しているので、もしかして与一の通称が左馬丞であれば、辻褄が合いますね。

 

先に調略を仕掛けたのは清洲衆だった

かくして清洲衆の家老は残り一人です。

・坂井大膳

状況だけ見れば、清洲衆の防戦一方といえるでしょう。

それでも織田信友率いる【織田大和守家】は尾張の守護代。
守護の斯波義統を彼ら清洲衆が殺してしまっているので、一応は尾張のトップです。

が、現実問題、家老が一人に減っていでは、実務的にもプレッシャー的にも到底やっていけず、さすがに心もとなくなったのか、大膳は信長の叔父・織田信光を引き入れようと考えました。

「信友様と信光様、お二人で守護代になってください」
ともちかけたのです。

信光はこれを受け入れ、起請文を出して誠意を見せました。
この対応に大膳もスッカリ安心し、信光は清州城の南(みなみやぐら)へ引っ越します。

清州城

この場合の「櫓」は、簡単にいうと小さな天守(閣)みたいな建物のことです。
天守がシンボル的な役割を強く持つのに対し、櫓は実用的な機能が強くなっています。

もう少し現代の建物に寄せた表現をするならば、天守が本館、櫓が別館みたいな感じでしょうか。
当然、本館にあたる部分には信友が住んでいるので、新参である信友は別館にあたる南櫓に入ったのです。

一見、信長の敵が増えてしまったように見えますね。
しかし……。

 

ナゼ信光があっさり応じると思ったか?

大膳の引き抜きに呼応したのは織田信光の作戦でした。

これ以前に信光は
「私が一計を案じ、清州城をだまし取ってみせましょう。清州城は信長殿に差し上げるので、私に尾張下四郡のうち、東半分をくれませんか」
と信長にもちかけていたのです。

フシギなのは大膳です。
そもそも信長に味方していた信光がナゼあっさり敵方に応じるのか――疑問を持たなかったのでしょうか。

起請文は神仏への誓約書ですから、これを出す時点である程度の誠意は見えるとしても、反故にした例もままあります。
普通なら信用しにくい状況です。

うーん、この辺はナゾですが、裏切りが日常茶飯事の世の中ですから、信光もそれなりの手順を踏んで大膳を信用させたのでしょう。
弁舌の立つ人物だったのかもしれません。

そして天文二十四年(1555年)4月20日。
ついに事態は動きました。

 

兵を察知して逃亡!

この日、大膳は、信光に挨拶するため、清州城の南櫓へやってくることになっていました。

【これぞ好機!】

そう考えた信光は、兵を隠して大膳を待ち受けます。

しかし、どこからか情報が漏れたものか。
大膳本人は伏兵に気づいて一目散に逃げ出してしまいます。

そのまま今川氏のもとに身を寄せたというのですから、仮に本拠地・今川館までトンズラしていたとしたらハンパない逃げっぷり。

一応、清洲城から駿河館までの地図を掲載しておきましょう。

青色:清州城(織田信友)
黄色:那古屋城(織田信長)
赤色:今川館(今川義元)※後に駿府城

尾張の隣国・三河が今川傘下だったので、現実的には三河入りをして一段落着いた後に今川館へ出向いたという流れだと思います。
三河であれば一日で移動できない距離ではありません。

信光にとっては拍子抜けだったでしょう。

桶狭間の戦い直前の勢力図(桶狭間の東が三河国)絵・富永商太

ともあれ、これで始末すべき敵は、当主の織田信友一人だけですからラクなもの。
追い詰めて自害させると、清州城乗っ取り計画は無事に成功しました。

信光は直ちに信長へ連絡、清州城を引き渡して、自身は入れ替わりで那古屋城へ移ります。

計が無事成功して万々歳……と思いきや、話はこれで終わりません。
なんと、この年の11月、他ならぬ信光が「不慮の事故」で急死してしまうのです。

 

奥方と家臣が良からぬ仲に……なんて俗説も

信長にとっては、あまりにも出来すぎた展開。

世間では「策のために起請文を書いたから、神様が怒って神罰を下したのだ」と評したとか。
牛一も事故の詳細を書かずに「信長にとっては幸運だった」と書いているので、なんともアヤシイ雰囲気が漂います。

俗説では、
「信光の奥方と家臣が良からぬ関係になってしまったため、その家臣が信光を殺した」
なんて話もあるくらいです。ったく、昼ドラじゃないんだから。

当然、現代でも、信光の急死については、信長の関与を疑う見方は少なくありません。

しかし、ここまで協力的だった信光を、このタイミングで排除する旨味はあまりないように思えます。
信長が家督を継いで比較的順調に来ていたとはいえ、当時はまだ弟・織田信行を支持する派閥もありました。

比較的協力してくれる上に、40代だった信光を天寿が尽きるまでうまく使って、信行を先に何とかしたほうが、信長にとっては安全策だったのではないでしょうか。
こればっかりは証明できませんし、記録にも残りにくいことなので、判断が難しいところですね。

なにはともあれ、これで清洲衆は片付きました。
しかし、まだまだ織田氏の身内のトラブルは続きます。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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