昭和十年(1935年)3月8日、渋谷の銅像で知られる「忠犬ハチ公」が亡くなりました。
昨今、秋田犬と言えばスケートのザギトワ選手とマサルのコンビが代表格ですが、一定の年齢層以上の方にはハチ公の方がお馴染みですよね。
よく混同されがちな柴犬とは違って体格がシッカリしていて、後ほど掲載する最期の写真を見てもかなり大きな犬だったことがわかります。
彼の忠犬ぶりについては知っている方も多いでしょうけど、あらためてお読みいただければ幸いです。
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米俵に入れられて 秋田から東京まで20時間
ハチは大正十二年(1923年)11月10日、秋田県で生まれました。
ちょうど同時期、東京帝国大学(現在の東大)農学部の教授・上野英三郎という人物が
「秋田犬を飼いたいんだが、誰かアテはないか?」
と探しており、白羽の矢が当たったハチは年明け早々、秋田から東京へ20時間もの旅をすることになります。
米俵に入れられてたそうで、よく体調を壊さなかったものです。
後述する晩年の様子からして、もともとかなり頑丈な体質だったんでしょうか。
ちなみに価格は当時のお金にして30円でした。
現在の貨幣価値に換算するとだいたい75,000円って感じですかね。
※当時の1円=現在2,500円で計算しました。大正時代は物価の変動が激しいので、厳密にこの価格ということはできません。悪しからずご了承ください
現在、秋田犬の子犬をブリーダーから買うとこの倍以上はしますので、当時としてもかなり良心的な値段というところでしょうか。
ときには3匹そろって渋谷駅へ出かけることも
秋田からの長旅を終えたハチ。
東京・渋谷の上野宅で、ジョンとエスという2匹の犬と共に飼われることになります。
特にポインターのジョンとは仲が良かったそうです。
犬でも猫でも先住と新参の間を取り持つのはなかなか難しいと言われますけれども、この辺は飼い主さんたちがうまかったのかもしれません。
落ち着ける場所だと判断したためか。
ハチは飼われてから割と早いうちに玄関先での見送り・渋谷駅までの送り迎えをし始めていたとか。
ときには3匹揃って駅へ行くこともあったようで、ぜひともその光景を拝みたかったものです。
今だったらどこぞの番組で取り上げられてますよね。
しかし、そんな幸せな生活は1年ほど経ったある日、上野教授が急死したことで終わってしまいます。
お通夜の日も主人を迎えるため、ジョン・エスと一緒に渋谷駅まで行っていたらしいので、飼い主がもう帰ってこないということを信じたくなかったのでしょうか。
未亡人となった上野教授の妻・八重は、犬の世話をしきれないと考えたのか、ハチを親戚の家へ預けました。
やっぱりご主人が忘れられないの?
ハチは、預かり先でお客さんに飛びついたり、渋谷の方向へ向かって逃げてしまったり。
預け先とご近所サンとの間で「犬のしつけができてないじゃないか!」と騒動の種になってしまい、再び上野宅へ戻されることになります。
それでもやはり主人がいないことに落ち着かなかったのか。
近所を荒らしまわるなど問題は絶えず、最後は上野宅へ出入りしていた小林菊三郎の元へ行くことになりました。
顔(匂い?)を知っている人の側でやっと落ち着いたのか、ハチの問題行動は多少収まります。
小林は昔と同じようにハチを可愛がりましたが、ハチが渋谷駅で上野教授を待ちわびるかのような行動を見せ始めたのはこの頃からでした。
しかもただ駅に行くだけではなく、上野宅にも立ち寄っていたそうです。
既に教授の死から2年が経過していましたが、まだそれを信じられなかった……いや、信じたくなかったのでしょうか。
おっと涙腺が(´;ω;`)
西洋犬が重宝されて 日本犬は
動物愛護という概念がほとんどなかった時代のこと。
飼い主が側にいない犬は、野良犬か脱走かと見られても仕方ない時代です。
昔から事情を知っている人はともかく、渋谷駅周辺の住人や商売人、利用客の全てがハチのことを知っていたわけではありませんから、ハチは心ない人から悪戯や虐待を受けるようになってしまいました。
野良犬と勘違いされたことのほかに、この時代特有の価値観も関係しているかもしれません。
どういうことかといいますと、時を遡ること明治時代。西洋のさまざまな文物が入ってきた際、さまざまな愛玩犬も来日していました。
そのため「カッコイイ西洋犬飼おうぜ!」という風潮が強まり、逆に日本犬が軽視されるという傾向があったのです。
純秋田犬のハチもこの風潮の悪影響を受けていたということは充分考えられます。
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もちろんこれを危ぶむ考え方もあり、その中でも斎藤弘吉という人は「日本犬保存会」という団体を結成、日本犬の保護に努めました。
斎藤はハチについても以前から知っていたため黙って見ていることが出来ず、ハチの事情を原稿にまとめて東京朝日新聞(現在の朝日新聞の前身)へ寄稿します。
これにより事の経緯が多くの人に知られるようになり、ハチを哀れむ人が増え、食べ物をもらったり渋谷駅での寝泊りが許されるなど扱いは格段に良くなりました。
「ハチ公」と敬称をつけて呼ばれるようになったのはこの頃のようです。
彫刻家の安藤照氏が自ら製作を名乗り出るが
現在、渋谷駅前の待ち合わせ場所として有名なあの像が作られたのもほぼ同じ時期のことです。
彫塑家の安藤照氏がハチの逸話に感動し「ぜひ作らせてもらいたい」と自ら名乗り出て製作が始まりました。
幸い小林宅と安藤氏のアトリエが近かったので、毎日、小林とハチの二人(?)で足を運んで作業を進めたのだとか。
完成の際はハチ自身も参加して盛大な式典が催されたそうですが、残念なことに戦時中の【金属供出】で初代の像は溶かされてしまいます。
ハチの逸話は戦前から海外にも広まっていたため、戦後再建された際はGHQのお偉いさんも除幕式に参加したそうです。何だかなあ。
ちなみに溶かされた像は東海道線を走っていた列車のどれかに使われたようで。
もしかしたら静岡や名古屋、京都などを走っていたのかもしれませんね。さすがに現存はしてないでしょうけども。
慣れない路地で息絶えていた
そして銅像設置の翌年、上野教授が亡くなってからは約10年後の3月8日朝、ハチは普段行かないような路地で息絶えているのを発見されました。
この場所はいつもいるところからは駅を挟んで反対側だったそうなので、自らの死を悟って身を隠そうとしたのでしょうか。
ハチの死は渋谷駅周辺に大きな衝撃を与え、八重や小林夫妻をはじめとした周辺の人々が盛大な葬儀を催しました。
お坊さんが16人がかりで読経。
花や手紙、香典も人間と同様あるいはそれ以上に届けられたといいますから、晩年のハチがいかに可愛がられていたかがわかります。
多くの人に見送られた後、ハチのお墓は慕い続けた上野教授の隣に建てられました。
遺体は剥製にされているため、一緒に眠っていると言っていいのかどうかはちょっと微妙ですが……。
秋田犬の寿命は現在でも8~10歳くらいといわれていますので、当時の栄養状態にもかかわらず11歳で亡くなったハチはかなり長生きだったことになります。
そのため死因は老衰でもおかしくありませんでした。
が、解剖でハチがフィラリアに寄生されていたこと、心臓と肺にはがんができていたことがわかりました。
よくこの体で主人を待ち続けていたといわざるを得ません。いかんまた目頭が。
焼き鳥の串は屋台からもらったものでしょうが、そもそも人間の食べ物は動物にとって塩分などが濃すぎますし、ましてや串に刺さったままあげるのは大変危険ですから真似しないでくださいね。
当時は犬の好物と見られていたのでしかたなかったのでしょうけど。
焼き鳥が欲しかっただけ!という説には異論も
一方、ハチの逸話には疑問符が投げかけられている点もあります。
当時を知る人が
「ハチは教授の送り迎えと関係なく、しょっちゅう渋谷駅前をうろうろしていた」
「駅前の焼き鳥屋が目当てだった」
などと発言しているのです。
しかしこれには、斎藤が著書の中で異論を唱えています。
別の人からこんな証言も出ているのです。
「上野教授も小林もハチをとても大事にしていて、食事もきちんとあげていたから空腹になることはありえない」
「焼き鳥などをもらえたのは最後の2年間だけで、それまではいじめられていた」
有名税とでもいえましょうか。
特に利害が出るわけでもないのにどちらかを躍起になって否定するのも大人気ない話ですし、今となっては立証しようがないのですから、両方語り伝えていけばいいんじゃないかと思います。
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細かいことはさておき、ハチが今も日本だけでなく世界中の人々にその存在を知られている稀有な犬であり、親しまれていることには変わりありません。
大雪の際、渋谷のハチ公像周辺に雪で2匹目・3匹目・・・そして大量のハチ公が作る人がいたことにも表れているのではないでしょうか。
……白いお父さんとかタロとジロとか別の犬に見えるとか言わない言わない。
ハチ公のとなりにハチ公。ww
作った人、すごい!! pic.twitter.com/eqGLXqiL71— ナガタエリコ (@nagata_eriko) 2014年2月15日
長月 七紀・記
【参考】
忠犬ハチ公/wikipedia