『信長公記』は言うまでもなく織田信長の足跡を中心に描かれています。
ゆえに忘れがちですが、天正三年(1575年)11月、嫡男の織田信忠に家督を譲っており、当人はご隠居様になっていました。
実権を手放していないため、生涯、織田家の当主だったような印象もありますよね。
しかし、実際の行動を見ていくと、以前よりも一歩引いた立場になっていることもありました。
信忠をはじめとする織田軍が大坂へ圧力
天正六年(1578年)4月4日。
信忠を大将とする尾張・美濃・伊勢・近江・若狭・五畿内の軍が、大坂方面へ出陣しました。
大坂と言えば、大敵・石山本願寺の本拠地。
対する織田軍は、織田信雄・織田信孝・津田信澄といった織田一門の若者たちをはじめ、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆などの経験豊富な武将たちが参加しております。
『さては大きな合戦でもあったのか?』
そんな緊張感が走りますが、大々的な戦闘はなく、2日ほどかけて麦畑を薙ぎ払い、すぐに帰還しました。
石山本願寺への圧迫といったところでしょうか。
信忠が大将だったことからもわかる通り、信長はこのとき出陣していません。
では一体何をしていたのか? と言うと、4月7日に越中の武将・神保長住(じんぼう ながずみ)を二条御新造に招いています。
こちらの予定が先にあって、自分では行かず信忠に任せたのかもしれません。
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そこで武井夕庵と佐々長秋を通じて、しばらく対面していなかったことについて説明し、その後、黄金100枚と“しじら”100反を進呈したといいます。
神保長住を北の監視役に
神保長住は素性のよくわからない人ですが、父は越中の大名・神保長職だったと考えられています。
神保氏は、鎌倉時代には名門・畠山氏に仕えた重臣。室町幕府の成立と共に上京を果たすとその後は越中に勢力を持つようになりました。
しかし、長住の時代になると、家中が親上杉派と反上杉派で割れて勢力争いに敗れ、その後、長住は京都で浪人、いつ頃からか信長へ仕えるようになりました。
佐々長秋(さっさ ながあき)は「長穐(ながあき)」とも書き、上杉家との外交を担当していた人物です。信長から謙信に宛てた手紙の添え状を書いたり、越後への使者を務めたりしています。
佐々成政とは同姓ですが、血縁関係は不明。
この時代にはよくある話ですね。
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当時の越後では、上杉謙信が急死したことにより、【御館の乱】と呼ばれる後継者争いの真っ最中でした。
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上杉家内だけでなく、隣接する地域の大名・武将にも、介入しようと動いていた者もおり、北陸から北方の越中・越後エリアは予断を許さない状況です。
そのためか、信長は長住の警護として、飛騨の三木自綱(みつき よりつな・姉小路頼綱とも)と長秋をつけて送らせたといいます。
なんせ織田家のためにも、越中・越後の情報をより多く集めることは重要です。
長住を復権させて越中を任せることができれば、越後以北への足がかりが一つ増えることになります。
その護衛や援護として、領地が隣接している自綱や、既に現地の事情をある程度知っている長秋ならば、うまく立ち回れると考えたのでしょうね。
丹波の抵抗勢力・波多野氏
この節にはもう一つ、信長が家臣たちを出陣させた件が載っています。
4月10日、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀を丹波へ向かわせました。
この頃、丹波の大名である波多野氏が織田家に反抗しており、放置しておけない状況にあったためです。
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一益らは、波多野氏の家臣・荒木氏綱の園部城を包囲し、水を断って降伏を促します。
氏綱はこれまでにも粘り強く抵抗していたため、力攻めではなく水断ちを選んだのでしょう。
どれだけ根性のある将兵でも、水がなければひとたまりもありません。氏綱は間もなく降参したため、光秀の軍を入れて駐留させました。
26日には一益・光秀・長秀が揃って京都に帰還しています。
彼らは冒頭の大坂出陣にも参加していますので、なかなかの忙しさです。
ちなみに、次回もこの三人は一緒に出陣しています。その相手とは……。
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【参考】
国史大辞典
大石 泰史 (編集)『全国国衆ガイド 戦国の‘‘地元の殿様’’たち (星海社新書)』(→amazon)
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)










