フィクション作品では、茶室で膝を突き合わせながら政治や商売の密談を進めるイメージが強いものですが、実はその関わりは織田信長時代からのものです。
『信長公記』にも登場していたんですね。
同書で初めて「千宗易」が名前が見えるのは天正三年。その前後の記載を含めて見て参りましょう。
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石山本願寺との和睦
天正三年(1575年)10月21日。
石山本願寺の門跡・顕如(本願寺光佐)が、三好康長と松井友閑を介し、織田家に和睦を申し入れてきました。
信長はこれに応じることにします。
しかし実際のところ、石山本願寺との戦いは、この後も五年間続きます。
今回の和睦は、双方にとって「今戦うのは得策ではない」という状況が重なったことによるものでした。
終戦ではなく、一時停戦といったほうがイメージ的には近いでしょうか。「今後はずっと仲良くしよう」ではなく「“とりあえず今は”喧嘩するのをやめておこう」という感じですね。
なんせ本願寺は、
で2年連続して織田軍に拠点を攻略され、著しく戦力を失っていました。
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越前よりさらに北にある(現在の石川県である)加賀一向一揆は1580年まで続きます。
が、いずれにせよ落ち目であることは間違いありません。
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そうした状況を受けての和睦だったのでしょう。
和睦を申し入れた本願寺から信長へ贈り物
一方、織田家としても、武田・上杉・毛利氏という強大な敵はまだ存在しており、一時的にでも停戦できるならありがたいお話。
図らずも両者の利害が一致したため、信長はすんなり受け入れたと思われます。
和睦の礼として、石山本願寺から信長へ「小玉澗(しょうぎょっかん)・柳・花の絵画三軸」が贈られることになりました。
本願寺の長老衆が携えて京都に出向き、わざわざ信長に和睦の礼を述べたといいます。
斡旋をした三好康長も、信長へ名物「三日月」の茶壺を献上しました。
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これらの贈答品は、後に信長主催の茶会で飾られたという記録があります。
信長から返礼の品を送ったかどうかは不明ですが、『信長公記』には記載がないので、おそらくなかったのでしょう。
前述の通り、本願寺と織田家の戦況は、すでに信長のほうが有利でしたので、それだけに一向宗サイドが下手に出たのかもしれません。
ちなみに、この和睦は半年後、本願寺の挙兵によって破られることになります。
結局、自分から仕掛けるんかーい、とツッコミたくなるところです。
飛騨の三木自綱(姉小路)は名馬を献上
同年10月23日には、飛騨の国司・三木自綱が上洛。信長に挨拶をして栗毛の馬を献上しました。
前回献上された奥州の馬と同様、この栗毛も素晴らしい駿馬だったので、信長は大切に飼ったといいます。
栗毛というのはまさに栗の外皮のような、全身が明るい茶色の馬のことです。
前回(126話)出てきた”鹿毛”は、全身が濃いめの茶色で、足やたてがみが黒っぽくなっている毛色を指します。
どちらも「馬」と言われればなんとなくイメージする毛色ですね。
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三木自綱は、今日では姉小路頼綱の名で挙げられることが多い人です。
初名が三木自綱で、姉小路家の名跡を継いだので後者を名乗るようになりました。
飛騨が越後とも近いことから、この時期はまだ織田家と上杉家の間でどっちつかず。
ここから三年後、上杉謙信が亡くなってからは、織田家にかなり近づきます。
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自綱の妻が斎藤氏出身、つまり信長の正室・帰蝶(濃姫)の姉妹であったことから、親族扱いを受けていたようです。
この三木自綱の上洛から5日後の10月28日には信長主催のお茶会が開かれました。
特筆すべきは、あの「千利休」が茶頭を担っていたことでしょう。
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