主に身内の妨害を退けつつ、合戦の準備を重ねてきた織田信長。いよいよ美濃侵攻を始めます。
と言っても、いきなり大本命の稲葉山城(後の岐阜城)へ攻めることはできません。
手前に築かれた斎藤家を守る小さな城々。
それを攻略せねばなりませんでした。
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最初の難所は木曽川
当時の信長の勢力圏から美濃へ行こうとすると、まず二つの障害がありました。
ひとつは木曽川です。
現代の地理の授業やニュースでも話題になりますが、木曽川を含めた「木曽三川」は、古来から水害を多く起こしてきました。
ある程度落ち着くのは、信長死後に起きた天正十四年(1586年)の大洪水の後のことです。
当然ながら、信長が美濃へ攻め込もうとしていた時期はこれより前なので、うまく水量を見極めて渡河しなければなりません。
『信長公記』にはこの時点での渡河に関するトラブルなどの記述がないので、ここはうまく行ったと思われます。
若い頃から領内を馬で駆け回っていた信長のことですから、季節や天気と川の水位の関係なども、おそらく頭に入れて動いていたのでしょう。
伊木山で宇留摩城にプレッシャーを
そしてもうひとつの障害が、木曽川近隣にあった斎藤氏方の城です。
前回でも触れた、宇留摩城(うるまじょう・鵜沼城とも)と猿啄城(さるばみじょう)です。
早い段階で内応を申し出てきた加治田城と違い、この二つの城は信長と戦う姿勢を明らかにしていました。
とはいえ、最終目標が堅牢で知られる稲葉山城なのですから、手前の小さな城に兵力や時間を割いてはいられません。
そこで信長は、ここでも敵の精神を攻撃する手段に出ました。
宇留摩城から3kmほど西にある伊木山という山に布陣し、堅固な砦を築いたのです。
地図で見ますと、
【斎藤方】
・赤色(上)→猿啄城跡
・赤色(下)→宇留摩城(鵜沼城)
【織田方】
・黄色(上)→伊木山
・黄色(下)→小牧山城
となります。
拡大していただけるとよくわかりますが、伊木山から宇留摩城(鵜沼城)に対する圧がかなりのものだとご理解いただけるでしょう。
最終的に水源を断ち両城を攻略
本連載の42話でも同様のケースがありましたね。
信長が小牧山城に移転したことにより、そこから見下されることになった於久地城(おぐちじょう・小口城)が、織田方のプレッシャーに耐えられず自ら開城した……というものです。
小牧山城移転に見る信長の知恵~戦国初心者にも超わかる信長公記42話
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宇留摩城も同様の状態になったため、城主・大沢基康(次郎左衛門)はあっさり城を明け渡しました。
もしかすると、日頃から斎藤氏にうんざりしていて、このことを口実にしただけかもしれません。
基康は身長2m以上で怪力の大男だったという話もあるので、臆病風に吹かれたというよりは、見限る口実にしたというほうが納得できそうです。
猿啄城のほうは、伊木山からもう少し離れていることもあって、抵抗の姿勢を続けていました。
……が、丹羽長秀の隊が猿啄城の水源を絶ったことにより、やはり信長に降参しています。
丹羽長秀は安土城も普請した織田家の重臣「米五郎左」と呼ばれた生涯51年
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現代人にとって、信長にはまだ荒っぽいイメージが強いですが、於久地城・宇留摩城・猿啄城攻略のように、戦以外の策略で解決することもありました。
これも意外な一面といえるかもしれませんね。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
富永 商太・絵
【参考】
国史大辞典
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