激戦だった前回の【長篠の戦い】から一転。
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今回は、信長の日常がうかがえる……かもしれないお話です。
あるホームレスとその集落の民たち、そして信長との興味深いエピソードが『信長公記』巻八に記されております。
こんなお話でした。
常磐御前を殺した報いで障害がある
美濃と近江の国境・山中(やまなか)に、身体に障害を抱えたホームレスがいました。
性別は書かれておらず、ここでは仮に「彼」と呼ぶことにします。
山中は中山道の宿場でしたので、織田信長も京都への往来でこのあたりをよく通っておりました。
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そのたびに彼が毎回同じところにいるので、信長は不思議に思い、近隣の者に尋ねました。
「普通、ああいった者はあちこちへ移動するものだが、なぜあやつはずっとあそこにいるのか?」
「あの者の祖先が常磐御前を殺したので、その報いを受けているのです。代々生まれつきの障害を持ち、あそこでその日暮らしをしています。このあたりでは”山中の猿”と呼んでいますよ」
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この地を常磐御前が訪れたのは、京に残してきた義経(当時は牛若丸)が東国へ向かったと聞き、後を追う途中だったとか。
そして山中で賊に襲われて命を落とした――そういわれています。
現代でも、山中の地には常磐御前の墓がありますね。
他にも常磐御前の墓とされているものはあるので、事実かどうかは不明ですが。
「”猿”のために小屋を建ててやってほしい」
信長は、この話を聞いたときはそのままにしておいたようです。
しかし天正三年(1575年)6月26日、急いで京へ向かう途中で、山中に立ち寄りました。
そして「町の者は男女問わず、全員集まるように」と命じます。
信長が【比叡山焼き討ち(1571年)】や【長島一向一揆(1574年)】などで苛烈な処断を下してから、まだわずかな期間しか経過していない頃。
「できるだけ関わりたくない」と思っている者は少なくなかったでしょう。
町人たちが恐る恐る出向いていくと、信長は思わぬ行動に出ました。
木綿二十反を渡し、こう告げたのです。
「この布を売り、その代金の半分で、”猿”のために小屋を建ててやってほしい。それから、近くの者は年に麦を一度、米を一度分け与えてやってくれれば、信長も嬉しく思う」
あまりの意外な情けに”猿”本人はもちろんのこと、町人たちも驚嘆。信長に感謝したといいます。
これには信長の御伴たちも感涙し、”猿”のためにいくらかの米や銭を出し合ったのだとか。
舞台が関ヶ原町であることと何らかの因縁が?
当時、木綿は国内生産が始まったばかりで、庶民がしょっちゅう手に入れられるものではありませんでした。
日本の戦国時代では、三河である程度の規模の栽培が始まっていたらしいので、信長はそこから手に入れたのでしょうか。
大河ドラマ『おんな城主 直虎』で、井伊直虎の先導により木綿栽培を手掛ける場面がありましたね。
おそらく、小屋を建てるくらいの費用は簡単に作れたでしょう。全額を”猿”のために使えと言わず、半分というあたりが心憎い配慮です。
町人たちだって、自分らに何らかのメリットがあれば、働きやすくなるでしょう。
この話は後日談がないので、町人たちがその後もずっと”猿”を養ったかどうかはわかりません。
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