織田信長は、九鬼嘉隆が堺に停泊させた大船を検分するため、京都を出発しました。
この大船というのは、今日”鉄甲船”と呼ばれているものだと考えられています。
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残念ながら『信長公記』には描写が少ないため、構造をうかがい知ることはできません。
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幟や旗指し物、幔幕などを飾った美しい船団
堺までの道のりの途中、若江や、石山本願寺と対陣中の佐久間信盛がいる天王寺の砦、住吉大社などに立ち寄りながら、目的地に着いたのは9月30日のこと。
検分には、近衛前久・細川昭元・一色義道などが同行していました。
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船団の指揮を取っていた九鬼嘉隆は、大船に幟(のぼり)や旗指し物、幔幕(まんまく)などを飾って信長を出迎えました。
他の兵船も武具を飾り、美々しい船団になっていたようです。
また、堺の町衆が信長の御座船を用意し、舶来物の茶道具を集めてこちらも飾っていたとか。
「献上品も数多く用意していた」とありますが、具体的にどのようなものだったかまでは記されておりません。
さらには、船団(あるいは信長)を見ようとしてなのか。
堺の庶民や僧侶が数多く集まり、衣服に焚きしめられた香の香りがあたり一面に漂っていた――なんて生々しい表現があって、著者・太田牛一の文才を感じたりもします。
今井宗久の茶に始まり商人の家をはしご
信長は船を検分した後、堺の商人の家をいくつか尋ねました。
今井宗久の家で茶を振る舞われ、その後に紅屋宗陽、天王寺屋(津田)宗及、天王寺屋(津田)道叱の家にも立ち寄って、宿所にしていた住吉の社家へ戻っています。
宗久以外の三人も、堺の大商人であると同時に茶人です。
道叱と宗及は叔父と甥の関係で、宗及のほうは千利休や今井宗久と並び称されるほどでした。
大船に関しての信長の感想等は記されていませんが、建造を指揮した九鬼嘉隆と滝川一益には、それぞれかなりの褒美が与えられました。
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嘉隆には黄金二十枚、衣服十重、菱喰の折り箱二折。
また、嘉隆と滝川一益にそれぞれ千人分の扶持が加増されています。
【丹和沖の海戦】(167話)の報告も当然受けていたでしょうし、信長からしても、大船の出来は満足できるものだったと見て良さそうです。
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