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信長公記 寺社・一揆

信長の敗戦 北伊勢の一向宗徒に殿部隊を潰されて~超わかる信長公記102話

今回は、織田信長を最も手こずらせた敵のひとつ【長島一向一揆】に関連した戦いです。

徳川家康も、家臣団が分断された三河一向一揆で苦労しているように、庶民も武士も巻き込んだ当時の一向宗は団結力があって非常に厄介。

このときの信長も痛い目に遭わされるのでした。

 

船が足りず長島攻めは断念した代わりに

天正元年(1573年)9月24日、信長は岐阜城から北伊勢へ向けて出陣しました。

地理的に近い長島一向一揆勢に呼応し、北伊勢の一向宗徒・国人らが反織田の姿勢を取り始めたからです。
当初は長島そのものを攻める予定でしたが、船がうまく手配できず、まず北伊勢を攻略することになりました。

※中州に立つ長島城を攻撃するには船が欠かせなかった

この日、信長は大柿城(=大垣城・岐阜県大垣市)に泊まり、翌25日に大田城(海津市)のある小稲葉山に布陣しました。

一方その頃、近江にいた佐久間信盛・羽柴秀吉・蜂屋頼隆・丹羽長秀らも北伊勢へ向かっていました。
26日には、その道中で西別所城にしべっしょじょう・坂井城(両方とも桑名市)の一揆勢を多く討ち取ったとあります。

少し時系列が飛び、10月6日。
この日、柴田勝家と滝川一益が包囲していた坂井城の主・片岡が退城し、二人は深谷部(桑名市)の近藤の城へ攻め寄せました。

近藤はなかなか粘っていたようですが、織田方が坑夫を雇い、隧道を掘って攻めたため、降参・退去しています。

10月8日にはこれらの戦果を受けて、信長が東別所(桑名市)へ進み陣を張り直します。

これにより、北伊勢の多くの地侍が、信長へ従う意志を示すために人質を出して挨拶に来ました。
【比叡山焼き討ち】や浅井長政や朝倉義景の死を伝え聞いて……でしょうかね。

 

「計略をもって山本の腹を切らせた」

もちろん、全ての人間が最初から従ったわけではありません。

白山城(一志郡白山城)の中島将監だけは渋りました。
が、信長の命で佐久間・蜂屋・丹羽・羽柴の四人が攻めたため、間もなく降参・退去しています。

また、明智光秀がこの日、京都・静原山の山本対馬守の首を信長の陣まで持ってきた……とあります。

明智光秀
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光秀はこの頃、京都で奉行のような仕事をしていたので、同時に周辺地域の反織田勢力への対応もしていたのでしょう。
『信長公記』では「計略をもって山本の腹を切らせた」と書かれています。何をどうしたんでしょう……。

こうして北伊勢は平定され、京都の反織田勢力も鳴りを潜めつつありました。

ただ、この時点でも長島へ渡るための船を揃えることができませんでした。
そのため信長は矢田城(桑名市)に滝川一益を入れ、ひとまず岐阜へ帰還しようとします。

しかし、これは一揆勢からすれば絶好のチャンス。
10月25日、撤収しようとする織田軍の背後から、長島の一揆勢が襲いかかったのです。

 

かつて追撃を食らった苦い思い出の場所で……

この周辺エリアは、二年前(77話)の戦でも、織田軍が追撃を受けたところです。

一揆勢の追い打ちで鬼柴田も負傷~超わかる信長公記77話

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柴田勝家が苦戦し、氏家直元が殿を務めて討ち死にという、因縁のある場所でした。
信長や多くの織田軍将兵もそのことを忘れるはずはないでしょうから、それでもここを通らざるを得なかったのですね。

このときも織田軍の被害は甚大なもので、最高峰の殿しんがりを任された林新次郎(通政)は善戦しながらも、一族郎党みな討死したといいます。

新次郎は織田家の筆頭家老・林秀貞の息子、あるいは娘婿とされる人物です。

秀貞は典型的な文官タイプでしたが、新次郎は真逆の武人タイプ。槍の名手だったとされており、姉川の戦いなどにも前線で参加していました。
信長からの信頼も厚く、だからこそこのときも殿を任されたのでしょう。

他には、越前衆の毛屋猪助けやいのすけが善戦したとか。彼は生き残り、この後も度々登場します。

 

織田軍の中には凍死者も出たとか

この日は正午頃から日暮れまで雨風が激しく、鉄砲がほとんど使えなかったことも、織田軍が苦戦した一因だったようです。

悪天候の中の白兵戦となれば、ホームである一揆勢のほうが有利なのは自明の理ですよね。

また、気温もだいぶ下がっていたようで、織田軍の人足の中には凍死者も出たとか。
新暦に直すと11月中旬ですので、気温によってはありうる話でしょうか。

信長はこの日の夜に大柿城へ入り、翌26日に岐阜へ帰還しています。

これで、長島の一向一揆勢攻略失敗は二度目。
しかも弟や複数の家臣を失っています。

後に信長が大量虐殺を強行することで知られる長島一向一揆勢との戦いは、戦国のならいとはいえ、こうした怒りと恨みが募ってのことでした。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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