今回の『信長公記』解説は「巻十二 第十四節」で、信長の次男・織田信雄(のぶかつ)に関するお話。
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織田信雄(信長次男)の生涯|信長の血を後世に残した男は本当に愚将だったのか
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多くのフィクションで「愚将」と描かれがちな信雄、その一因となった「伊賀攻め」ですね。
織田信長さん、ブチ切れますが、さて、『信長公記』には何と書かれていたのでしょうか。
伊賀の地侍に敗れて家老も討死
それは天正七年(1579年)9月17日のことでした。
信長の次男・織田信雄が、独自の判断で伊賀へ出陣し、敗北を喫します。
当時の伊賀は地侍達による自治状態。
生半可なことでは攻略できないため、信長も後回しにしていたのですが……信雄はこう考えたようです。
「うち(信雄の養子入り先である伊勢)のすぐそばだし、伊丹に行くより近いから、伊賀を傘下にしたほうがよかろう」
結果、見事な返り討ちに遭ってしまうのです。
その上、殿(しんがり)を務めた家老の柘植三郎左衛門(保重)が討ち死にするという大惨事に至ります。
入り組んだ山中という地の利を活かした伊賀の地侍たちが縦横無尽に戦ったと考えられ、残念ながらド派手な忍術などを使った話は『信長公記』には書かれていません。
親子の縁を切ることも考える
当然、このことは信長にも報告されます。
といっても当時の連絡手段では、何を伝えるにも少々時間がかかります。
ほぼ同時期の9月18日、信長は京の屋敷・二条御新造で、摂家・清華家と細川昭元による蹴鞠の会を見物していました。
そして9月21日に、京都から伊丹方面へ出陣し、山崎に宿泊。
22~23日も雨のため山崎に駐留し、ここで信雄宛てに17日の敗北に関する手紙を書いています。
大まかに訳しますとこうなります。
◆織田信長から織田信雄への手紙
『伊丹へ出陣すると部下や民衆の負担が大きい』という意見に流されて伊賀へ出陣したそうだが、言語道断だ!
伊丹へ来れば父や兄、そして天下のためになり、お前自身のためにもなったはず。
しかも三郎左衛門らを討ち死にさせてしまったとはけしからん!
こんなことを続けるつもりなら、親子の縁を切ることも考える。
詳細はこの手紙を持たせた使者に伝えさせるので、よく聞くように」
当時の社会通念で”親子の縁を切る”というのは、相当なことです。
本当に重要なことは使者に伝言させる、というのはよくある話ですが、一体どんな話だったのか気になりますね……。
一益や長秀の陣で一息ついて
天正七年(1579年)9月24日に信長は山崎を出発。
古池田に陣を構え、ここで数日間、周辺の様子を確かめていたようです。
伊丹城とは荒木村重が叛旗を翻し、そして当人だけは逃げ出していたところですね。
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27日に伊丹城を包囲している各砦を視察しており、あくまで想像ですが、信雄に関する怒りは少し落ち着いたかもしれません。
特に、小屋野では滝川一益の陣でしばらく過ごし、塚口では丹羽長秀の陣で休息したそうです。
この二人には前回(188話)で馬を下賜されていますし、何か深い話をしたのかもしれません。
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その後、暮れ方に古池田へ戻り、翌28日に京都へ戻っています。
途中、初めて茨木城に立ち寄りました。
この城は荒木方から織田方になったところですから、戦線が膠着しつつある状況下で、一度見ておく必要があると考えたのかもしれません。
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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)






