今回の『信長公記』解説は「巻十二 第十四節」で、信長の次男・織田信雄(のぶかつ)に関するお話。
織田信雄(信長の次男)は本当に愚将だったのか?信長の血筋を現代へ繋げる
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多くのフィクションで「愚将」と描かれがちな信雄、その一因となった「伊賀攻め」ですね。
織田信長さん、ブチ切れますが、さて、『信長公記』には何と書かれていたのでしょうか。
※本稿は織田信長の足跡を記した『信長公記』を考察しており、今回はその189話目(巻十二 第十四節)となります。
前話は以下の通り。
黄金200枚で信長に買収をしかけた常見検校~信長公記187・188話
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伊賀の地侍に敗れて家老も討死
それは天正七年(1579年)9月17日のことでした。
信長の次男・織田信雄が、独自の判断で伊賀へ出陣し、敗北を喫します。
当時の伊賀は地侍達による自治状態。
生半可なことでは攻略できないため、信長も後回しにしていたのですが……信雄はこう考えたようです。
「うち(信雄の養子入り先である伊勢)のすぐそばだし、伊丹に行くより近いから、伊賀を傘下にしたほうがよかろう」
結果、見事な返り討ちに遭ってしまうのです。
その上、殿(しんがり)を務めた家老の柘植三郎左衛門(保重)が討ち死にするという大惨事に至ります。
入り組んだ山中という地の利を活かした伊賀の地侍たちが縦横無尽に戦ったと考えられ、残念ながらド派手な忍術などを使った話は『信長公記』には書かれていません。
親子の縁を切ることも考える
当然、このことは信長にも報告されます。
といっても当時の連絡手段では、何を伝えるにも少々時間がかかります。
ほぼ同時期の9月18日、信長は京の屋敷・二条御新造で、摂家・清華家と細川昭元による蹴鞠の会を見物していました。
そして9月21日に、京都から伊丹方面へ出陣し、山崎に宿泊。
22~23日も雨のため山崎に駐留し、ここで信雄宛てに17日の敗北に関する手紙を書いています。
大まかに訳しますとこうなります。
◆織田信長から織田信雄への手紙
『伊丹へ出陣すると部下や民衆の負担が大きい』という意見に流されて伊賀へ出陣したそうだが、言語道断だ!
伊丹へ来れば父や兄、そして天下のためになり、お前自身のためにもなったはず。
しかも三郎左衛門らを討ち死にさせてしまったとはけしからん!
こんなことを続けるつもりなら、親子の縁を切ることも考える。
詳細はこの手紙を持たせた使者に伝えさせるので、よく聞くように」
当時の社会通念で”親子の縁を切る”というのは、相当なことです。
本当に重要なことは使者に伝言させる、というのはよくある話ですが、一体どんな話だったのか気になりますね……。
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