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【伊賀攻め失敗の信雄を叱責】
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一益や長秀の陣で一息ついて
天正七年(1579年)9月24日に信長は山崎を出発。
古池田に陣を構え、ここで数日間、周辺の様子を確かめていたようです。
伊丹城とは荒木村重が叛旗を翻し、そして当人だけは逃げ出していたところですね。
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27日に伊丹城を包囲している各砦を視察しており、あくまで想像ですが、信雄に関する怒りは少し落ち着いたかもしれません。
特に、小屋野では滝川一益の陣でしばらく過ごし、塚口では丹羽長秀の陣で休息したそうです。
この二人には前回(188話)で馬を下賜されていますし、何か深い話をしたのかもしれません。
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その後、暮れ方に古池田へ戻り、翌28日に京都へ戻っています。
途中、初めて茨木城に立ち寄りました。
この城は荒木方から織田方になったところですから、戦線が膠着しつつある状況下で、一度見ておく必要があると考えたのかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)