2年前の天正15年に完成し、豊臣秀吉のお気に入りだった聚楽第の壁に、何者かが落書きを書いた。
詳細は不明ながら、天下人として権勢を震い、傍若無人化していた秀吉をバカにするような内容と伝わっており、もしも秀吉が、批判をものともしない器量があれば笑って過ごしていたであろう。
しかし、向かうところ敵なしの権力者に、その器は備わっていなかった。
聚楽第落書き事件――。
天下人の残虐な本性を炙り出すかのようなこの悲劇は、側室の茶々に待望の嫡男・豊臣鶴松(棄・捨)が生まれた年のことであった。
聚楽第落書き事件
◆正室・寧々(北政所)に限らず、数多の側室を抱えていた秀吉さん。
秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)は女癖の悪い夫をどう操作していた?
続きを見る
なかなか子供に恵まれなかったのはよく知られた話ですよね。
側室の中には、秀吉の元へ来る前に子を産んでいた女性もいたのに……と、これ、現代の常識で考えれば秀吉さんが子供を作れない身体という診断になるようです。
しかし、現実に茶々(お市の方の娘・信長の姪っ子)は身ごもりました。
秀吉さんの喜びったら、そりゃ天にも昇る心地だったようですが、それに水を差されたワケで。
淀殿出産
◆落書きに激怒した秀吉さんは、聚楽第の警備係のものを始め、犯人、またその関係者を処刑しました。
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
配下の警備係は耳鼻を削がれて磔にされ、犯人・道休たちは、本人だけでなく妻子や関係者も京都市内を引き回されて六条河原で磔。
この一件の被害者は60名ほどだと伝わっております。
しかし、そこまでやれば、落書きを暗に認めちゃってることになりそうなもんですが……。
※続きは【次のページへ】をclick!