天正四年(1576年)秋――織田信長は任官のために上洛しました。
この年11月21日、内大臣に昇進したのです。
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朝廷トップ3の一つ・内大臣
内大臣とは、律令制における政治機関・太政官(だじょうかん)のナンバー4といえる役職です。
上から順に並べると、
1.太政大臣
2.左大臣
3.右大臣
4.内大臣
となります。
太政大臣は名誉職に近く、不在の時期もありますので、
・左大臣
・右大臣
・内大臣
をトップ3として扱うことも珍しくありません。
信長の時代にも、太政大臣は任命されていませんでした。
こうした官位(官職と位階のこと)については、知っておくと知らないとでは日本史の楽しさが倍ほど変わってきます。
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では、話を本題へ戻しまして……。
武官を与えられなかった理由は義昭?
信長が内大臣に就任した同日、左大臣と右大臣も任じられました。
左大臣は九条兼孝。
右大臣は一条内基(うちもと)という人です。二人とも藤原北家の流れを引く摂関家の人々ですね。
信長の出自(尾張守護代の庶流・その先祖は越前の神官とも)を考えると、九条・一条家という名門中の名門と並び立ったことは、まさに異例といえるでしょう。
もちろん、内大臣になったからといって、信長が朝廷にとどまって政治をするということではありません。
この任官は、信長の働きを認め、朝廷にとっての重要性を内外に示すためのものです。
実は、元亀4年(1573年)【槇島城の戦い】で信長に京都を追放された足利義昭は、征夷大将軍から退いておりません。
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その段階で、信長に武官としての高い位を授けにくかった――そんな事情があったのかと思われます。
征夷大将軍に準ずる官職としては「鎮守府将軍」がありますが、その前段階ともいえる「秋田城介(あきたじょうのすけ)」という官職は、すでに信長の嫡子・織田信忠に与えられておりました(132話)。
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となると、以前(129話)に授かった【権大納言】【右近衛大将】から、シンプルに一段階昇進させる形で、内大臣が望ましかったのでは……?というわけです。
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