江戸時代初期の朱印船(角倉船団)/国立国会図書館蔵

信長公記 剣豪・武術・忍者・武器

【信長の秘策は巨船】琵琶湖を走らせ義昭封じだ~超わかる信長公記91・92話

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時は元亀四年(1573年)――。

織田信長は、将軍・足利義昭に手厳しい警告書を送って一悶着あった後に和解を済ませ。

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その後、挙兵してきた六角氏、そして天台宗にも焼き討ち等でキッチリと釘を差しました。

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とはいえ、事があっさり片付くとも思っていません。

特に将軍・義昭は、その気になれば全国の大名に「信長を討て」と言える立場です。
諸大名が実際に応じるかどうかはさておき、ショーグンという身分は大義名分に使えるため、非常に厄介なもの。

そこで信長は、
「将軍が再び兵を挙げるとしたら、きっと琵琶湖を防衛線にするだろう」
と予測し、先手を打っておくことにしました。

大船を建造して、いざというときの”足”を確保しておこうと考えたのです。

 

長さ54m&幅13m 岡部又右衛門を巨船建造の棟梁に任命

元亀四年(1573年)5月22日から、信長はしばらく佐和山(滋賀県彦根市)に滞在します。

後に石田三成が居城とし、関ヶ原の戦い後に一族が悲劇を迎えた地でもあります。

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信長は、この佐和山城に材料と職人を集め、船の建造を推し進めようと考えたのです。

まず多賀・山田(いずれも犬上郡多賀町)の山中から木材を切り出し、瀬利川沿いの松原(彦根市)へ降ろさせました。

そして国中の職人をかき集め、大工の岡部又右衛門という者を棟梁に任命。
構造を事細かに指定して、早速作業を始めさせます。

信長本人が佐和山に留まり、昼夜なく作業させたため、この大船は7月3日に完成しました。

気になる大きさは……なんと長さ54m、幅13mもあったとか!

陸上競技の50m走コースよりも長い船ということになりますね。

あるいは、一般的な学校などにある25mプールを縦に2つ繋げたような大きさでしょうか。
どちらにしろ、大きすぎてなかなか想像しにくいですが……。

 

カツオやマグロを採れるような大きさの船

現代の乗り物でいうと、海外まき網漁船が一番近い大きさです。

海外まき網漁船とは、太平洋中央区域で年間通して操業する、漁船の一種。
カツオやマグロが主な漁対象となっています。

船の構造や素材が全く違いますし、そもそも用途も違うので単純な比較はできませんが、

・カツオやマグロを採れるような大きさの船を、義昭対策のために造らせた

というのは、なかなかインパクトのある話ではないでしょうか。

軍船ですから、もちろん運ぶのは兵や兵糧、武器。
具体的な収容数が『信長公記』に書かれていないものの、かなり大規模であることは間違いありません。

そして織田家にとっては残念なことに、船の竣工から程なくして活躍の場が訪れてしまうのです……。

足利義昭の軍勢でした。

 

本来ならば自分が目上なんじゃ

事前に和睦をしたばかりの義昭。
将軍に就任できたのも全ては織田信長の苦労あってのことです。

しかし義昭本人は、
「本来ならば自分が目上の立場であり、信長は自分の言うことを聞くべき」
という考えを持っていたフシがあり、立ち上がったのですね。

信長包囲網に武田信玄が加わるという周辺状況も、義昭の強気に拍車をかけたのでしょう。

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信長が大船を完成させた直後の元亀四年(1573年)7月5日。
再び挙兵した義昭は、二条御所に公家衆と家臣を残し、自分は槙島(宇治市)に移動しました。

この件は直ちに信長の耳に入りました。

信長はさっそく建造したばかりの大船に乗り、琵琶湖を横断して坂本(大津市)へ到着。
7日には入京しているのですから、恐るべき早さです。

そして定宿である二条の妙覚寺(京都市上京区)に陣を据え、二条御所の包囲にかかります。

 

藤孝の兄だけが籠城を続けた

あまりの反応の速さに驚いたのが義昭方の公家衆。
すぐに降参をして人質を出してきました。

いくらかは武士も残っていたでしょうが、信長を相手にして、主のいない場所を守り切るのは不可能だと考えたようです。

ただ一人、三淵藤英(みつぶちふじひで)だけが籠城を続けていましたが、諦めて数日後には降参しました。

この人は、細川藤孝の異母兄です。
かつて【永禄の変】が起きたとき、奈良の興福寺から義昭を救出したうちの一人でもありますね。
義昭への忠誠心も高い人でした。

異母弟の藤孝は、義昭と信長が対立した際に信長方へついて断絶しましたが、藤英は義昭に仕え続けたのです。

一時は弟の裏切りに激怒し、当時、藤孝の居城・勝竜寺城(長岡京市)を攻めようとしていたこともありました。

これは失敗に終わりましたが、

「幕臣として生きようとした」藤英
「家にこだわらず生き残る道を選んだ」藤孝

という考え方の違いがうかがえますね。

この辺りの違いは、大河ドラマ『麒麟がくる』でも注目のところですので、よろしければ当人の生涯まとめ記事もご覧ください。

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肝心の義昭ついては、次の節で。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link
焼津漁業協同組合
海外まき網漁業協会

 



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