何かと野心的でありながら、政治については子供みたいに雑な対応をしていた将軍・足利義昭。
キレた織田信長が意見書を送り付け、すわ戦か!というところで両者は和解となりました。
これにて京都周辺を落ち着かせることができた織田軍ですが、京都から岐阜への帰り道に、見逃せない火種が残っていました。
六角氏の鯰江城です。
信長の上洛ルート途中にある南近江。
もともとこの近辺で勢力を根ざしていた六角氏だけに、放置しておくと何かと厄介なことになりかねません。
実際、この鯰江城の戦いでは、意外な勢力の参戦もあったのです。
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聖徳太子によって開かれた百済寺
岐阜への帰路、信長は近江の守山(滋賀県守山市)にいったん布陣。
そこから百済寺(東近江市)に移動して、2~3日駐留します。
百済寺は、聖徳太子によって開かれたという伝説を持つ、非常に古いお寺です。
TOPの画像が現在残る百済寺本堂で、史料上の初出は寛治三年(1089年)ですが、いずれにせよ長い歴史を持つことは確実です。
その始まりは如何なるものだったか?
聖徳太子の開基説では、次のような言い伝えになっています。
聖徳太子が高麗の僧侶・慧慈と共にこの地を訪れた際、不思議な光を放つ大きな杉の木を見つけた。
多くの猿たちがその木に果物を供えて拝んでいるのを見て、太子はこれを霊木であると感じ、根を付けたまま観音像にした。
そしてその像を囲むようにお堂を建てた。
その後の時代にも、朝鮮半島から渡ってきた僧侶が多く住んでいたとか。
複数の理由で朝鮮半島との接点があったからこそ「百済」の名がついているんですね。
ちなみに昨今の古代研究では「百済」のことを「くだら」ではなく「ひゃくさい」と読むとのことです。
歴史が動いている証拠ですね。
鯰江城の戦いに助力していたのは?
百済寺の宗派は天台宗です。
なので、信長が焼き討ちした延暦寺とは同門ということになります。
そのせいか百済寺も戦国時代に入ってから戦火に巻き込まれることが多く、大規模な火災に二回も遭っておりました。
創建当初からの建物や仏像などはほとんど焼けてしまったのだとか……。
数十年経った信長の時代にはなんとか回復できており、ルイス・フロイスは百済寺のことを「地上の楽園」とまで褒めています。
フロイスはキリスト教の宣教師なので、基本的に仏教については厳しい評価が多いのですが、ここは別格だったようですね。
もしくは文化と教義を分けて考えていたのでしょうか。
そういう歴史あるお寺に留まって、信長は六角氏と対峙しておりました。
鯰江城(東近江市)に六角義治(六角義賢の子)が立てこもり、反抗の兆しを見せていたため、出鼻をくじくことを画策したのです。
信長は、佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家の四人に命じて鯰江城の四方を包囲させます。
錚々たるメンツですね。
しかし城方も空濠や土塁などを備え、籠城戦の準備を整えていたこともあって、すぐには落ちません。
実は城外に六角氏の協力者がいたのです。
籠城戦で城外に助っ人がいることは珍しいことではありませんが、この場合は少々事情が異なりました。
なんと百済寺だったのです。
百済寺 歴史的には6回目の大火災
百済寺の僧侶たちは、鯰江城に兵糧を運び込んだり、六角軍にいる者の妻子を匿うなどの協力をしておりました。
ほぼ同じことをやっていた総本山の延暦寺でさえ信長に敗れていたというのに、見上げた根性というかなんというか……。
このため、信長は4月11日に百済寺を焼き討ち。
寺側にとっては70年ぶり・歴史的には6回目の大火災と相成ります。
本尊の”植木観音”こと十一面観世音菩薩像は、8kmほど離れた奥の院に移されて無事だったといわれていますが、その他はかなりの被害が出たでしょう。
その被害の大きさを推し量るものとして、「百済寺樽」の製造中止が挙げられます。
同寺で代々作られていた清酒で、朝廷に献じられていたこともあるとか。
「仏教ではお酒はダメなんじゃないの?」
と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、一応それらしき理由はあります。
百済寺のように、創建が非常に古い寺院の中には、神道と密接に結びついているところも少なくありません。
神道では神前にお酒を供えて「御神酒」と呼び、尊んでいますよね。
これがそのまま残ったお寺がいくつかあり、百済寺もその一つだったと考えられます。
しかし、このときの信長による焼き討ちで、百済寺樽は作れなくなってしまいました。
仏教的には正しい道に立ち返るきっかけになったかもしれませんが、伝統化しているものが失われるのもちょっと……という感がありますね。
ただし、こうした寺社の焼き討ちで「信長=第六天魔王」という見方をするのは早計かと思われます。
長島一向一揆にせよ、比叡山延暦寺にせよ、浅井朝倉などの軍事勢力に加担したからであって、信長は寺社そのものを無闇に攻撃してはおりません。
そもそも第六天魔王という話も、ちょっとした悪ふざけから拡散したようなもので。
その辺の話は以下の記事に詳しくありますので、よろしければ併せてご覧ください。
なぜ信長は「第六天魔王」と呼ばれた?売り言葉に買い言葉が現代へ
続きを見る
なお、百済寺のお酒は、2017年に復刻版が作られ、毎年製造を続けているようです。
ご興味のある方は、調べてみると面白いかもしれません。
長月 七紀・記
※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
続きを見る
なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
大河ドラマ『麒麟がくる』に関連する武将たちの記事は、以下のリンク先から検索できますので、よろしければご覧ください。
麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
続きを見る
【参考】
百済寺/公式サイト
百済寺樽/公式サイト
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)
百済寺/wikipedia