「海への進軍」を描いた版画/Wikipediaより引用

アメリカ

建物も畑も焼きつくす南北戦争「海への進軍」アメリカ軍の作戦が恐ろしい

戦争に正義などありません。
多かれ少なかれ人は死ぬわけで、その被害が少ないうちに終結へ向かわせるのが指揮官の役目でしょう。

しかし歴史上、その過程の是非を全く考えない作戦も多々あるわけで……。

1864年(日本では幕末・元治元年)11月15日は、アメリカ南北戦争で「海への進軍」という作戦が開始された日です。

南北戦争の過程と併せてを見ていきましょう。

 


機械化が進む北軍に対し、人力が必要だった南軍

南北戦争といえば奴隷制の可否が焦点になりがちです。
実際は、人道的な理由よりもビジネス的な面が大きくなっていました。

南部は綿花などの農業で奴隷が必要だったのに対し、北部は工業化が進み、南ほどの奴隷は必要なかったのです。

また、北部にはヨーロッパからの移民がやってきて人口が急激に増えたのに対し、南部ではなかなか人口が増えないという状況もありました。そりゃ、奴隷=生活環境が劣悪=子供を生むどころではないですからね。

貿易に関しても北部と南部では考えが割れていました。

北部は機械化が進んでいたので、ガンガン物を作ってイギリスとの競争に勝ちたいと考えていました。
南部は綿花をイギリスに輸出する代わりに工業製品を輸入していたため、イギリスとは持ちつ持たれつの関係でいたいと思っていました。

そんなに対英関係が大事なら、いっそ独立しなければよかったんじゃね? というツッコミは抑えておきましょう。

こうして北部と南部で諸々の点について意見が割れ始めたところに、新たな火種が生まれます。

フランスからルイジアナを購入、メキシコからテキサス・カリフォルニアを併合などしてアメリカの領土が広がったことにより、これらの新しい領地で奴隷制を採用するかしないかという問題が出てきたのです。

青が北部(アメリカ合衆国)諸州、赤が南部(アメリカ連合国)諸州。水色は合衆国に留まった奴隷州/Wphoto by Tom wikipediaより引用

 


南北戦争の経過

大統領選挙や議会では奴隷制の可否が主な焦点になり、継続を望んだ南側の州は、合衆国から独立して「アメリカ連合国」を名乗りました。

そのため「南北戦争は内乱ではない」と考える人もいます。

が、日本語だとややこしいのでだいたい「北軍」「南軍」と呼んで、内乱扱いにしているようです。
第一次・第二次世界大戦での連合国とも紛らわしくなりますしね。

そして1861年から、いよいよ南北戦争が始まります。
いつものように、おおまかな流れを先に出しておきましょう。

①1861年4月 南軍が北軍のサムター要塞を攻撃して戦争開始

②1862年5月 ホームステッド法発効

③1863年1月 奴隷解放宣言

④1863年7月 ゲティスバーグの戦い

⑤1864年11月「海への進軍」開始 ←今日ここ

⑥1865年6月 南軍が軍事行動できなくなり、北軍の勝利

ちなみにこれ、日本と通商に関する交渉をしている最中のことです。
ペリーが帰国したのも、南北戦争が始まってからでした。

そのせいでアメリカでは「ペリーって誰?」みたいな扱いになっている……というのは、以下の記事にありますね。

ペリーはアメリカで無名な存在だった!? めちゃめちゃ苦労して進めた開国交渉

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直接は関係ありませんが、「近代の内乱」というくくりで考えると、戊辰戦争が約1年で終わったのが奇跡に思えてきます。

 


永住権を明記したホームステッド法が北軍の後押し

南軍は人口=兵数で劣っていました。
ただし、イギリス・フランスの後押しを受けたため、当初は有利でした。

ところが、です。
時間が経つにつれ、様々な面で勝る北軍が巻き返したところで、リンカーンの奴隷解放宣言が出され、これが体外的な決定打になります。

「俺たちは人道的な政策を国中に行き渡らせるために戦っているんだ!」

そんなスローガンを推し進めることで、大義名分は北軍にあると示したからです。

話が前後しますが、北軍が作ったホームステッド法という法律も、戦争の後押しになりました。

「21歳以上ならば、誰でも公有地を借りられる」
「さらに、その土地で五年間定住し、一定以上の大きさの家を建てて農業をすれば、永住権を得られる」

こうした条件を約束したことにより、まだ奴隷制の諾否を決めていなかったアメリカ西部地域が北軍に味方するようになったのです。

そして最大の戦闘となったゲティスバーグの戦いでも勝利を収めた北軍。

ゲティスバーグの戦いを表した絵/Wikipediaより引用

南軍の早期降伏を図るため、さらに兵を進めました。

目指す先はジョージア州・アトランタ。
1996年にオリンピックをやった町ですね。

 

民間人をどうにかせねば→建物や畑を焼きつくそう……えっ?

当時からアトランタは交通・供給両面の要所で、ここを押さえることは北軍にとって不可欠でした。

しばらく一進一退の状況が続き、やがて北軍は南軍の完全包囲に成功、アトランタは北軍のものになります。
南軍は軍事施設を焼き払って撤退しました。

北軍はここで「南軍の側についた民間人をどうにかしなければ、勝利したことにはならない」と考えます。
いつだって、兵よりも民間人のほうが多いですからね。

そこで計画したのが、アトランタから東海岸へ向かって、途中の建物や畑を全て焼きつくすという作戦でした。

攻め手が焦土作戦を使うというなかなかに珍しいケースですが、歴史的な意義よりも「一般人を巻き込んで当たり前」という感覚に怖気が走りますね。

これが「海への進軍」です。

「海への進軍」シャーマン将軍の進路/Wikipediaより引用

11月15日に開始し、同年の12月22日、東海岸の町・サバナに到達。

この作戦の司令官は、首都・ワシントンに向けて「クリスマスプレゼントです」と電報を打ったのだそうで。
まったく笑えないジョークですね。

 


民間人を巻き込むアメリカの戦争スタイルは当初から?

ただでさえ劣勢になっていた上、主要産業となる畑も、住むところも破壊された南軍。
遅かれ早かれ降伏するしかありませんでした。

奴隷制の可否だけ見ていると、いかにも北軍が人道的だったかのように見えますが、「海への進軍」を知るととてもそうとは思えないですよね。

衣食住に関わる全てを破壊した後、そこに暮らしていた人がどうなるかを全く考えていないわけですから。
奴隷にされていた人はいわずもがなです。

鉄道の線路をひきはがすシャーマン将軍の兵士/Wikipediaより引用

そんな感じで、アメリカは国としてスタートダッシュの段階から「戦争に民間人を巻き込むのが当たり前」だったということになります。

となると、時代が下って対外戦争になった時、敵国にもそれを求めるようになるわけで……第二次世界大戦時のアレコレもそうですし、現代にも通じてますね。
戦争で大義名分をアピールするところも。

なんだかアメリカの構造が変わらない限り、世界平和なんて夢のまた夢のような気が……って、今さら?

長月 七紀・記

【参考】
南北戦争/Wikipedia
海への進軍/Wikipedia


 



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