1983年(昭和五十八年)11月15日は、トルコ系住民が”北キプロス”として、キプロスからの独立を宣言した日です。
何だかいきなり訳わからん感じですので、例によって地図を見るところからいきましょう。
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古くから中継地として栄えてきた「美味しい場所」
キプロス島は、地中海東部のトルコに近いところにある島です。
地中海の島々によくあることで、この島も船運の中継地として古くから栄えてきました。
それだけに、周辺の支配者たちからは「美味しい場所」と捉えられました。
国の名前でいうと、エジプト第26王朝(紀元前664年~紀元前525年)・アケメネス朝ペルシア・プトレマイオス朝エジプトなど、古代史でよく出てくる大国たちに支配されたこともあります。
そして古代の地中海世界のお約束によって、ローマ帝国の属州となりました。
ローマ帝国が東西に分かれた後は、地勢上の関係もあり、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の一部となります。
この時点で住民の多くはギリシャ系・トルコ系がほとんどになっていましたが、ここで全く別の国が食指を伸ばしてきます。
イングランド(イギリス)です。
なぜかと申しますと、キプロス島を支配すれば、地中海での補給拠点ができるからです。
アメリカが幕末に「日本の近くで捕鯨したいから、補給させてよ!」って言ってきたのとほぼ同じ理由なんですね。
獅子心王リチャード1世はゲット&リリース
時折しも、東ローマ帝国ではお家騒動の真っ最中。
一方の皇族がキプロス島で反乱を起こしていたところへ、イングランド軍が通りかかりました。
第三回十字軍に参加するため、海路でやってきていたのです。
しかし、「逃げる奴は敵だ、逃げない奴はよく訓練された敵だ」状態のキプロス島の人々は、このイングランド軍の一部を捕らえてしまいました。
何という誤爆でしょう。
もちろんイングランド軍だってタダでは捕まりません。
このとき兵を率いていたのは、王様のリチャード1世(1157-1199)。
「獅子心王」という中世特有のカッコ良すぎる二つ名の御方です。
リチャード1世は
「ピンチはチャンスに変えるもの!」
とばかりに、リチャード1世は逆にキプロス島を攻めて占領してしまいました。
しかも、わずか5日間で制圧できたそうで。
東ローマ帝国の本土から見たらワケワカメだったでしょうね。
ところがリチャード1世は、その後あっさりキプロス島を手放してしまいます。
かつての臣下だったギー・ド・リュジニャンという人に押し付けているのです。
ギーはエルサレムで十字軍国家の王様をやっていたのですが、なんやかんやあってその地位を追われていました。
しばらくはゴネていたものの、旧主であるリチャード1世に「じゃあ新しい土地売ってやるから、おとなしくしろよ」(超訳)と言われ、渋々引き下がった先がキプロス島だったというわけです。
江戸時代より長く297年も安定していた
ものすごいテキトーっぷりな獅子心王ですが、キプロス島にとっては悪くない話でした。
ギーの子孫たちであるリュジニャン家は、297年も続いたからです。
江戸時代は265年ですから、「江戸時代よりも長く、一つの家が支配した国」と考えると、結構スゴイ話ですよね。
ちなみに、リュジニャン家がキプロス島の主になったのは1192年で、鎌倉幕府の成立年と同じだったりします。
そこから297年というと、日本史では戦国時代の始め辺りです。
しかし、そこへやってきたのが……。
上記の通りキプロス島は地中海の中継地の一つです。
その立地を見逃せない国が、ごくごく近所にありました。
「アドリア海の女王」ことヴェネツィア共和国です。
今でこそ「今世紀中に沈むか沈まないか」で有名な町ですが、当時は商人たちによる自治権を持った一つの独立国家でした。
また、経済力に裏打ちされた軍事力と商人ならではのバランス感覚で、他国とのパワーバランスを保つことにも長けています。
となると、近場のオイシイところを見逃すはずがないわけですよね。
そんなタイミングで、リュジニャン家にはヴェネツィア共和国出身の姫・カタリーナが嫁いできていました。
お約束通り、約300年の間にお家騒動とイスラムの脅威によって、リュジニャン家の力は弱まる一方。
しかも男の王様が立て続けに亡くなってしまったため、後に残されたカタリーナは一度は女王の座につきました。
が、実家であるヴェネツィア共和国にキプロス島を譲ることを余儀なくされます。
退位するとき、彼女は悔し涙を流していたといいますから、「これでイタリアに帰れるわ、ラッキー!」という感じではなかったようですけれども。
ロシアvsオスマン戦争に参戦した英国が島の存在を思い出し
その後1571年に、ノリにノっている最中のオスマン帝国が、キプロス島を武力で制圧。
更にそこから300年ほど、オスマン帝国に組み込まれます。
次にこの地がきな臭くなってくるのは、オスマン帝国が「瀕死の病人」になった19世紀後半のことです。
露土戦争(ロシア帝国vsオスマン帝国の戦争)の講和の際、オスマン帝国側についたイギリスが、この島の存在を思い出したのです。
当時、イギリスはエジプトを手に入れるべく、いろいろ動いていた頃でした。
これまたややこしい話で、この頃までエジプトも長い間オスマン帝国の支配を受けていました。
それが露土戦争の頃には
「オスマン帝国そろそろ終わりじゃね? 俺らも頑張れば独立できるんじゃね!?」(超訳)
という流れで、半独立状態になっていたのです。
ヨーロッパ諸国は「もうそろそろオスマン帝国をぶっ潰せそうだから、エジプトもそのままでいてくれたほうが助かるんだよね。本体を潰した後なら、俺達が切り取り放題になるし!」(超訳)という下心があったため、エジプトの独立を承認したがりません。
一方でエジプトの人々は独立に向けて、ムハンマド・アリーという人を中心に、急速な近代化に着手。
スエズ運河を作ったりして頑張り、その反動で経済危機という洒落にならない状態を引き起こします。
ヨーロッパ諸国からみれば、鴨が葱を背負ってくるどころか、自ら羽をむしってまな板に乗ってきたようなものでした。
第一次世界大戦時に英国が併合
かくして「エジプト、ゲットだぜ!」状態となり、ヨーロッパ諸国はにわかに騒ぎ出します。
地理的に不利なのが、地中海から最も遠いイギリス。
うまく事を進めるには、近くに拠点が必要になります。
そこで探してみたところ「あの辺がちょうどよくね?」ということで、キプロス島が候補に上がったのです。かなりとばっちりですね。
一応「イギリスがオスマン帝国からキプロス島をお借りしますね」という条約が結ばれたものの、この時代の「借りる」はその前に(永久に)という見えない補足がつくのがお約束。
そして第一次世界大戦でイギリスとオスマン帝国が敵対すると、待ってましたとばかりにイギリスはキプロス島を併合してしまうのです。
おやおや、こんなところにも火事場泥棒が……。
むろん、そんな状態は戦時中だからこそ許される話です。
第二次世界大戦が終わり、さすがのイギリスも消耗しきったタイミングで、キプロス島の人々は自ら道を決めつこととします。
結果、イギリスから独立した後、国は2つに分かれてしまいました。
これまたイギリスお得意の、民族による分断統治が続いていたのです。
現在もトルコ系とギリシャ系で南北が分断されている
上記の通り、キプロス島の住民は大きく分けてギリシャ系とトルコ系の二系統があります。
当然、ギリシャ系はギリシャ、トルコ系はトルコに組み入れられることを望みました。
この意見の相違が話し合いで解決されず、武力行使に至るわ、トルコ軍が介入するわで、話がこじれすぎてねじ切れるような状態に陥ります。
そして業を煮やしたトルコ系住民が島の北部に移動。
1983年に「北キプロス」として独立を図ったというわけです。
当然のことながら、他の国はほとんど承認していません。
むしろ、北キプロスを国として認めているのはトルコだけです。
現在も、北キプロスとキプロスは「グリーン・ライン」という境界線で物理的に遮断。
鉄条網・コンクリート壁・地雷原という、どこぞの壁を思い出すような三点セットです。
ただし一直線で分断されているのではなく、緩衝地帯といったほうが正しい状況で、グリーン・ライン上には町もあります。というか、首都のニコシアがグリーン・ラインでぶった切られるような形になっています。
グリーン・ラインは島の東西を曲がりくねっていますが、全長は300kmくらいですから、日本でいえば、東京~柏崎間を関越自動車道でぶった切るのとほぼ同じ距離になります。
物理的にも精神的にも、近いような遠いような感じがしますね。
まして、民族的な差異があるのでは余計にそう思うでしょう。
一応国連も動いていて、「連邦制にすれば、仲良く再統合できるんじゃない?」と持ちかけたことがあるのですが、南側=ギリシャ系の反対多数により否決されてしまいました。
二度の世界大戦はもとより、ユーゴスラヴィア紛争を始め、近場同士での泥沼な戦争はもうこりごりなヨーロッパ。
これ以上の流血を避けるために、
「いっそ北キプロスを国際的に国家として承認したらどうか」
という意見も出てきたとか。
何が何でも統合しなければならないというものでもないですし、それでうまくいくのなら、その道もアリでしょうね。
ギリシャもトルコも今のところ良い状態とはいえませんから、このまま穏やかな方向で話がまとまるといいのですが。
長月 七紀・記
【参考】
北キプロス・トルコ共和国/wikipedia
キプロス/wikipedia
グリーンライン_(キプロス)/wikipedia