人間誰しも一度は「お金持ちになりたい」とか「有名になりたい」とか考えますよね。
あるいは「幸せになりたい」とか。
歴史を見ることはこれらを実現した人々を追いかけていくことでもあるわけですが、彼らの全てが満足して一生を終えたかというと、案外そうでもない気がします。
富も名声も、家族との幸せさえも手に入れていても、自ら生み出してしまった懊悩に苦しんだ人もいるのです。
1910年(明治四十三年)11月20日に亡くなった、レフ・トルストイはその一人でした。
「戦争と平和」などで知られる大文豪ですが、最期は鉄道で肺炎を起こしそのまま亡くなるという行き倒れ同然のもの。
生前から何もかもを手に入れていた人なのに、なぜそんな寂しい最期を迎えることになってしまったのでしょうか。
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ロシアの貴族に生まれたトルストイ
トルストイは、ロシアの貴族の家に生まれました。
幼い頃に両親を亡くしていますが、特に問題なく親戚に引き取られたため、大学を出て軍に入るまでは至極順調な人生を送っています。
方向が少し変わり始めたのは、幾多の戦争に参加してからのこと。
志願兵として軍に入った割には昇進し、激しい戦闘の最中いろいろと思うところがあったようで、従軍中の体験を生かした著作を始めています。
また、教育の方面にも関心を持つようになり、この二つは彼のライフワークになりました。
退役してからは自分の領地で農民向けの学校を作ったり、当時のロシア貴族にしてはかなり先進的な考えと行動をしていました。
もちろん中央政府からはあまりいい顔をされず、この学校は閉鎖せざるを得なくなってしまいます。
それなら、と思い直したのか、トルストイは作品の中で教育に関することを含ませたりしています。
16歳年下の美少女を妻に
同時期に度々ヨーロッパへ出かけるようになり、各国を巡って見聞を深めたり、当時活躍していた作家達と興隆を持つようになりました。
親交のあった人たちの中には「レ・ミゼラブル」を書いたヴィクトル・ユゴーや「二都物語」のチャールズ・ディケンズなど、日本でもおなじみの作家もいます。
また、同時期に16歳年下の妻・ソフィアを得て、私生活での幸せを手に入れました。
念のために書き添えておきますと、トルストイ34歳、ソフィア18歳のときなので事案ではありません。多分。
二人の間には9男3女が生まれています。
あまり話題になることはありませんが、現在もご子孫がトルストイ記念館を経営されているとか。
プライベートでの充実が創作意欲を後押ししたのか、「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」といったトルストイの代表作はこの時期に執筆されたものです。
どちらも長編ですから、書き上げるには相当の気力体力が必要だったでしょうし、そうなると家族の協力が不可欠です。
充分にそれを得ることができていたからこそ、両作品とも後世に残る名作になったのでしょうね。
貧困層を救済するために金をつぎ込み……
その他の著作で得たお金や元々家にあった資産を、彼は貧困層の救済に使います。
そればかりか、資金を得るために著作したこともありました。
当時の貴族としてはまさに前代未聞のことです。
そのため作家としても人道的にも彼の名声はどんどん高まっていきます。
しかし、社会的な成功と反比例するかのように、彼の内面は暗いものが渦巻くようになっていました。
兄弟の死と前後して見た悪夢によって人生の無意味さを感じ、自殺まで考えるようになっていたといいますから、現代の精神医学にかかったとしたら間違いなくうつ病と診断されることでしょう。
どこかでそう言いきっている本を見たような見なかったような。
そうなったのは「アンナ・カレーニナ」を書き上げた1877年ごろだったといいますから、亡くなるまで30年以上もこの手の葛藤に苦しんでいたということになります。
自らの身分も苦悩の一因となっていたようです。
上記の通りトルストイは生粋のロシア貴族ですから、当然農奴や畑を持っており、地代を得ていました。
また、著作をしていたからには印税も発生するわけで、両方合わせるとかなりの額を稼いでいたことになります。
貴族の体裁を整えるためには屋敷の管理や身の回りの世話などに人手も物も入用になりますし、トルストイ夫妻は子沢山でしたからお金はいくらあっても困りません。
さらにその上で慈善活動をするには、稼げるだけ稼ぐのが自然ですよね。
しかし、トルストイはそれを良しとしませんでした。
あろうことか収入を拒否しようとして、せっかく結ばれた妻と仲違いを起こすようになってしまいます。
ソフィアについては「悪妻」とされることが多いようですけども、そりゃ奥さんからしたら”現実の見えないバカ亭主”と見えてもおかしくはない……というかむしろ当然ですよね。
俗な例えをすれば、
「子供が小さくて出費もかさむのに、夢ばかり追いかけているだらしない旦那」
なわけですから。
正義感からロシア社会への反抗、妻「あなた…もうやめて」
ですがこのことはトルストイの厭世観により拍車をかけたらしく、ついにはロシア政府ばかりか国家という制度、またロシア正教会に対して否定をし始めます。
どちらもヘタに敵に回せば命が危うい相手です。
平たく言えばブッコロされます。ああおそロシア。
しかし、ここまでに世界的な名声を得ていたトルストイは、即座に始末されるようなことはありませんでした。
むしろ民衆からの支持がより一層強まったため、どこもうかつに手を出せない存在になっていったようです。正教会からは破門されていますが、既に見限っていたトルストイにとってはさほど気になるものではなかったようです。
また、彼は非暴力主義者でもあり、ガンジーと文通していたこともありました。
当然のことながら日露戦争やロシア革命等、暴力の極みともいえることについては全て批判しています。
これまた一般人から支持される一因となりました。
しかし、”反比例”は留まることを知らず、トルストイは「召使いを使うような生活をしていることが恥ずかしい」とまで考えるようになっていきます。
再三になりますが、彼は生まれつき貴族ですから、本当はそんなことに罪悪感を覚えなくていいはずです。
むしろ農奴のための学校を作ったり、自ら畑に出て働いたりとかなり善良な領主でした。それを考えれば、屋敷で人を使って生活していることくらい何でもないと誰しも思っていたでしょう。
ですが、トルストイは自分自身を許せなかったのです。
80歳で家出! 妻の自殺未遂
相変わらず妻・ソフィアとはこの点で和解することができず、夫婦仲はシベリア化して久しくなっていました。
そして何もかも煩わしくなったトルストイは、妹が暮らしていた修道院を訪ねようと家を飛び出します。
しかし、ソフィアが夫の家出に絶望し、自殺を図ったという手紙が娘から届き、家へ戻ろうと慌てて列車に乗り込みました。
大金を厭っていたからか、身分にそぐわない三等列車だったそうです。
1910年――トルストイはこのとき82歳の高齢。その上11月のロシアです。
車内の環境は決して良好とはいえず、彼の体はそれに耐えられる状態ではありませんでした。
そして肺炎にかかり、途中下車した駅で亡くなったのです。
彼がやったことは、当時の状況からすれば理解しがたい点が多かったでしょう。
家族のことを考えずに収入を拒否したことも、決して褒められたことではありません。
しかし、間違っていることは何もなく、人類史上に残る名作を残した作家の最期としてはあまりに悲惨だということもまた事実です。
ソフィアも同じように考えたらしく、トルストイを追い出すような形になったのは自分のせいだと思い、自身の臨終間際に「私のせいであの人は死んでしまった」と後悔する言葉を残しています。
仲違いをしても、彼を愛し続けていたのでしょう。
いや、愛しているからこそきちんと生活してほしくて、キツい言葉になっていたのかもしれません。
子供がたくさんいたとはいえ、自己中心的なだけの女性だったらとっくのとうに一人で家を出て行っていたでしょうし。
お互いもう少し相手に伝わるように気をつけて話をしていれば、二人とも温かい空気の中で死ねたのではないかと思うと実に哀しいものです。
世界で一番切ない夫婦喧嘩……というと大げさでしょうかね。
長月 七紀・記
【参考】
『戦争と平和〈1〉 (新潮文庫)』(→amazon)
トルストイ/wikipedia