絵・小久ヒロ

信長公記 皇室・公家

信長の徳政令 皇室だけでなく借金チャラで公家も救おう~信長公記119話

武田勝頼の進軍により、東の情勢も不穏になってきていた天正三年(1575年)春。

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対武田の警戒は信忠に任せ、京都滞在中の信長は別の仕事をしていました。

4月1日、公家領に対する徳政令を発布したのです。

目的は公家の財務改善。どういうことかといいますと……。

 


公家領の債務を徳政令で放棄させ

永禄十一年(1568年)の上洛以降、信長は皇室に対して、内裏の修繕等を行うなどして復興を進めてきました。

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しかし、皇族よりずっと数の多い公家までは、さすがに手が回りきりません。

そこで、公家領にかかっていた債権(債務)を徳政令によって放棄させることで、財政改善を狙ったのです。

公家は皇室を通して国を支えると共に、文化を継承するという大切な役割があります。信長には、山科言継や近衛前久など、親しく付き合っている公家も何人かいましたので、彼らを通して公家の窮状を詳しく見聞きしていたでしょう。

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ちなみに当時の公家(神官)というと吉田兼見も思い出されるかもしれませんが、兼見は明智光秀と昵懇だったことで知られますね。

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話を戻しまして。
信長も何度も京都に来ておりますので、否応なく公家の屋敷前を通るはずですし、そこから家勢の傾きを察することは難しくないでしょう。

しかし、自分と近しい者だけを助けていては、依怙贔屓が過ぎるというもの。そうした小さな反感から反織田派閥を生んでしまったら、また敵を作ることになります。

となると、徳政令でできるだけ多くの公家を救済するほうがいいですよね。

 


フロイスも評価していた二人に任せ

この徳政令に関する事務作業は、村井貞勝や丹羽長秀に担当させていました。

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信長は、”広範囲に影響が及ぶ政治的なこと”はだいたいこの二人にやらせていたようですね。

能力もさることながら、二人の性格がこういった仕事に適していると判断したのでしょうか。他者との衝突が少なく、人付き合いをうまくこなせるタイプだったと思われます。

キリスト教の宣教師であり、『日本史』著者のルイス・フロイスがこう評しております。
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