武田勝頼の進軍により、東の情勢も不穏になってきていた天正三年(1575年)春。
対武田の警戒は信忠に任せ、京都滞在中の信長は別の仕事をしていました。
4月1日、公家領に対する徳政令を発布したのです。
目的は公家の財務改善。どういうことかといいますと……。
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公家領の債務を徳政令で放棄させ
永禄十一年(1568年)の上洛以降、信長は皇室に対して、内裏の修繕等を行うなどして復興を進めてきました。
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しかし、皇族よりずっと数の多い公家までは、さすがに手が回りきりません。
そこで、公家領にかかっていた債権(債務)を徳政令によって放棄させることで、財政改善を狙ったのです。
公家は皇室を通して国を支えると共に、文化を継承するという大切な役割があります。信長には、山科言継や近衛前久など、親しく付き合っている公家も何人かいましたので、彼らを通して公家の窮状を詳しく見聞きしていたでしょう。
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ちなみに当時の公家(神官)というと吉田兼見も思い出されるかもしれませんが、兼見は明智光秀と昵懇だったことで知られますね。
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話を戻しまして。
信長も何度も京都に来ておりますので、否応なく公家の屋敷前を通るはずですし、そこから家勢の傾きを察することは難しくないでしょう。
しかし、自分と近しい者だけを助けていては、依怙贔屓が過ぎるというもの。そうした小さな反感から反織田派閥を生んでしまったら、また敵を作ることになります。
となると、徳政令でできるだけ多くの公家を救済するほうがいいですよね。
フロイスも評価していた二人に任せ
この徳政令に関する事務作業は、村井貞勝や丹羽長秀に担当させていました。
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信長は、”広範囲に影響が及ぶ政治的なこと”はだいたいこの二人にやらせていたようですね。
能力もさることながら、二人の性格がこういった仕事に適していると判断したのでしょうか。他者との衝突が少なく、人付き合いをうまくこなせるタイプだったと思われます。
キリスト教の宣教師であり、『日本史』著者のルイス・フロイスがこう評しております。
村井貞勝は「尊敬できる異教徒の老人」
丹羽長秀は「信長の主要な将軍二人のうちの一人」
と書き記しています。
異国人であるフロイスから見ても、この二人は好ましく、かつ有能な人物だと映っていたのでしょう。
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債権者は素直に応じた?
徳政令というとだいたいトラブルが起きるものですが、このときは特に大きな揉め事はなかったようです。
織田家の軍事力を恐れたのでしょうか。『信長公記』からそういった様子を窺うことはできません。
おそらくは、債権を持っていた側も信長の施策(関所撤廃や街道整備など)によって流通経済が上向き、別口の利益が増えていたのではないでしょうか。となると、信長と敵対してまで公家領の債権を主張する意味は薄くなります。
なお、上洛以降、京都の政治を任せていたのは村井貞勝と丹羽長秀だけではありません。
結論から申しますと、上洛から段階に応じて
柴田勝家
蜂屋頼隆
森可成
坂井政尚
木下秀吉
明智光秀
中川重政
というメンバーが名を連ねておりました。
彼らは京都だけでなく畿内の支配が及ぶエリアで治安に当たるほか禁制の発布や税金徴収などを請け負っていたようです。
織田信長の上洛によって戦国史は軍事外交ばかりが目立ちますが、こうした地道な作業あってこそなんですよね。
特に、蜂屋頼隆や坂井政尚、中川重政などは派手な合戦エピソードもなく忘れ去られがちながら、織田政権にあっては重要なポジションにいたことがわかります。
また、大河ドラマ『麒麟がくる』によって信長以前の京都にも注目が集まるようになりました。
足利義輝だけでなく細川晴元や三好長慶など。信長公記ではほとんど出番がありませんが、非常に興味深い権力争いであり、機会があれば触れてみたいと思います。
【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
『戦国武将合戦事典』(→amazon)





